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幸福への道
こうふくへのみち
作品ID33200
著者素木 しづ
文字遣い旧字旧仮名
底本 「青白き夢」 新潮社
1918(大正7)年3月15日
初出「新潮」1915(大正4)年1月
入力者小林徹
校正者松永正敏
公開 / 更新2003-12-17 / 2014-09-18
長さの目安約 16 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

『上れますか。』
 高い、こまかい階段の前に、戀人の聲が、彼女の弱い歡樂の淡絹をふりおとした。
 彼女は、立止まつた、その瞬間、いま賑かな街を俥で飛んで來た、わづか十五分間の、眩惑されるやうな日のなかの、うれしさの心まどひが、彼女の心の底に常にひそんでゐる孤獨と悲哀の恐ろしさに、つゝまれてしまつた。『私の幸福を、私の弱さがさまたげやしないか。』彼女は、非常に弱かつた。そしてその足は、彼女がせまい胸を壓するやうに、脇の下にはさんでゐる所の、黒い杖でさゝへなければ、まだ若い彼女は、この光りにみちた地上を歩くことが出來なかつた。
 そして、それがすべて若くして病める弱い人々のやうに、あらゆるうれしさや、よろこびの、さゝいのなかにも、淋しい恐ろしい孤獨と悲哀とを感ずるチヤンスを、見出すことを忘れさせなかつた。『私の弱さが、私の歡樂をうばひはしないか。』と。
『えゝ、』彼女は、高い階段の先を見上げた。その高い階段は、また先の方に暗くなつて、登つただけ、再び降りなければならなかつた。
 彼女は、睫毛をふせた。その階段が、彼女を威壓するやうに見えたから、彼女の弱い足元がふるへて、不安とかなしみが混亂してこみ上げて來るのを感じた。けれども、それが彼女一人の時においてゞなく、戀人の呼吸と、その衣ざはりのかすかな響とを、傍に聞くことが出來たから、不安は、羞恥と淡い恐れとになつて、彼女は、上氣したやうに、頬を赤くそめてうつむいた。
 彼女は、そしてその伏せた瞳のなかに、女が白い細やかな、紅の裾に卷かれた兩足を持つて、蛇のやうにすばやく駈け登つて行くのを見た。
 彼は、靜かに、そして斜に階段を上り初めた。彼女は、そのあとに從つて、ひそかにかなしい杖の音を立てたが、危さと苦しさと、弱い恐れとかなしみが、彼女のすべて[#「すべて」は底本では「すべで」]を圍繞した、けれども、彼女は、はずむ息を靜めた。苦しさが醜さを、ともなひはしないかと、恐れたのであつた。そして、只その瞳に戀人の足元を見ることが出來たから、涙のやうな微笑をうかべて、無言のまゝ階段の上に、足をすゝめた。
 漸く彼女が、階段を降りて地上に立つた時、ふりそゝぐやうにかぶさる、秋の強い日光の黒い木棚のそばに、戀人の青い衣の輝きを見た。彼は、降りて來た階段の高さを、振り仰ぐ瞳のなかに、彼女を見た。彼女の蒼白い頬には、瞳のあたりまで紅の色が上つてゐた。紫に輝く髮の上に、重たい光りのおもさを感じてゐるやうであつた。うつむいたまゝ足元の影を見つめてゐる。そして、彼女の黒塗の杖は、銀いろに輝いてゐた。
『彼女は、かなしんでゐる。』さう思つた時、彼は、彼女に對して自分の感情をつたへる、言葉を一言も見出さなかつた。彼は、彼女を後に振りかへるやうにして、靜かに車内に入つた。彼女は影のやうに從つた。
 廣々とした車内には、閉ざゝれた連なる玻璃の窓…

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