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母性偏重を排す
ぼせいへんちょうをはいす
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「与謝野晶子評論集」 岩波書店、岩波文庫
1985(昭和60)年8月16日
初出「太陽」1916(大正5)年2月
入力者Nana ohbe
校正者門田裕志
公開 / 更新2002-06-10 / 2014-09-17
長さの目安約 17 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 トルストイ翁に従えば、女は自身の上に必然に置かれている使命、即ち労働に適した子供を出来るだけ沢山生んでこれを哺育しかつ教育することの天賦の使命に自己を捧げねばならぬと教えられ、またエレン・ケイ女史に従っても女の生活の中心要素は母となることであると説かれる。そうしてトルストイ翁では男の労働に対してする余力ある女の助力が非常に貴いものであるとして許容せられるに反し、ケイ女史では女が男と共にする労働を女自身の天賦の制限を越えた権利の濫用だとして排斥せられる相異がある。またトルストイ翁では男女の生活の形式は異っていても一般の天賦においては全く平等であると見られるのに反し、ケイ女史では自然が不平等に作った男女の生活を人間が平等にしようとするのは放縦であると見られる相異がある。しかし体的労働と心的労働が男に属する天賦の使命であって、女にはそれが第二義の事件であるという思想は二家共に一致している。
 こういう二家の主張と、これを継承し、または期せずしてこれと同調の思想を述べる主張が世にいう母性中心説である。私はこの説に対して疑惑がある。
 誤解を惹かないために予め断って置く。私は母たることを拒みもしなければ悔いもしない、むしろ私が母としての私をも実現し得たことにそれ相応の満足を実感している。誇示していうのでなく、私の上に現存している真実をありのままに語る態度で私はこれを述べる。私は一人または二人の子供を生み、育て、かつ教えている婦人たちに比べてそれ以上の母たる労苦を経験している。この事実は、ここに書こうとする私の感想が母の権利を棄て、もしくは母の義務から逃れようとする手前勝手から出発していないことを証明するであろう。
 女が世の中に生きて行くのに、なぜ母となることばかりを中心要素とせねばならないか、そういう決定的使命が何に由って決定されたか。私の意識にはこの疑問が先ず浮ぶ。そうしてトルストイ翁のこれに対する答えは「人類の本務は二つに分れる。即ち一は人類の幸福の増加、他は種族の存続。男は後者を履行することが出来ないようにされているので、主として前者にまで召命されている。女は彼らのみがそれに適しているので、全然その後者に召命される。……その本務は人間に由って発明されたものでなく、物事の本性の中にあるのである」(加藤一夫さんの新訳『我等何を為すべきか』に拠る)と言われる。
 この答を得てかえって私の疑惑は繁くなった。それは恐らく私の思慮の足りないせいであろうが、私にはトルストイ翁のこの答の中に重大な誤謬が含まれているように想われてならない。翁は男女の本務が物事の本性の中で予定されているといわれる。「物事の本性」とは男性は男性の本質、女性は女性の本質の意味であろう。私はそれを考察してみた。そうして私は「物事の本性」が男性女性という外面的差別の奥に「人間性」というもので全く内面的…

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