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社会生活の純潔性
しゃかいせいかつのじゅんけつせい
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十六巻」 新日本出版社
1980(昭和55)年6月20日
初出「婦人朝日」1947(昭和22)年5月号
入力者柴田卓治
校正者磐余彦
公開 / 更新2003-10-22 / 2014-09-18
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 私達が生きてゆく間には、千変万化の波瀾をくぐる。その波瀾の間に、人間として、強く、純潔に生きてゆくことは非常にむずかしい。現代に純潔は非常に少い。
 純潔とはどういうことを意味するのだろう。人間が社会に生きてゆく態度として、純潔性は、その人々が社会に持っている歴史の意味を明瞭に自覚して、歴史が一人一人その人達に求めている道を、積極的に勇気をもって進んでゆく。そういう自然で正直な態度の中に、社会生活の純潔性はあると思う。働く人には勤労階級として歴史から求められている最も名誉のある発展的使命がある。支配階級には、現在の歴史の中で矛盾の多い非生産的な階級でありながら、支配階級としての権力を保っていかれるという、その矛盾をはっきりと見てその矛盾がそれらの人々にもたらす生活変化、階級の没落に対して、正直に勇気ある人間らしい発展性で自分の身を処してゆくこと、それが生活の一つの純潔さの意味である。
 石橋湛山氏が大蔵大臣として、インフレーションの、恐しいこの時期に、ラジオ放送して、幼な児の如くならずんば天国に入るを得ず、というようなことをいったのは純潔と反対のことであった。大臣という立場は、全人民経済生活の具体的解決を責任としている。その責任を忠実に感じ、履行し、責任を負いかねる時には、その任を去るというのが純潔な態度である。この場合に、幼な児の如くならずんば、という聖書の言葉を出して、今日われわれの苦しんでいるインフレーションに対してただ政府を信頼せよというふうないいまわしをすることは、真実たる純潔そのものを侮辱したことである。
 ただ平和、衝突がないということ、そのことだけで純潔は意味されない。悪いことをしないということだけに純潔があるのではない。
 純潔ということには、非常に積極的な、非常に建設的な意味がある。社会は矛盾に満ちていて、私達はいつでも悪くなる動機をもっているし、濁らされる動機を持っている。それに対してはっきり社会の歴史の進む方向とそれにつれて自分の闘いの道を知って自分を立てる道をつかむこと、そのことなしに私達は一日も純潔にいられない。
 純潔というものは、或る特別の条件で固定した一つの型ではない。善とか悪とかいうことは相互の関係で変化して、善かったことが悪くなる時期がある。悪かったものが違った形に発展して善くなる場合もありうる。純潔というものもいわゆる「無垢」なるものだけが純潔なのではなくて、すべての不正とすべての間違いと、すべての汚れの中から、人間が自分の社会認識の力と人間性の油でそれらの汚れを弾きとばしながら生きていく、そこに純潔性があると思う。
 純潔ということが、異性の間の肉体的な関係に対してだけいわれるものでないことは、今日だれにでもわかっている。仲間としての友愛、友達としての友情、同志としての結合、そういう社会的な結び合いの中にある純潔さ…

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