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女子文壇の人々
じょしぶんだんのひとびと
作品ID3515
著者横瀬 夜雨
文字遣い旧字旧仮名
底本 「雪あかり」 書物展望社
1934(昭和9)年6月27日
入力者林幸雄
校正者松永正敏
公開 / 更新2003-08-11 / 2018-02-25
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 河井醉茗の五十年の祝をした時、私は上野から精養軒へ眞直に行つたので、誰もまだ來てゐなかつた。上つたんだか、下りたんだか忘れたが、左に庭を見て長い廊下を行くあたりで、向うから山田邦子さんが歩いて來るのに會つた。いきなり手を出して私をいたはるやうにして、よく出て入らしたと喜んでくれた。十六年ぶりの邂逅である。足が惡いと聞いてゐたが、歩くところを見ると疾い。瞳はむかしながらに澄んでたけれど、掌は私の方が小さいかして兩のこぶしの中へ包まれたのが剛い感じだつた。
 板倉鳥子さんが來た。風の強い日にはお堀端を通らぬやうにと祈つてゐる。それ程華奢である。
 三宅やす子さんも入らした。加藤弘之先生の許に居らるる時分から素ばらしい手を書いたが、今はペンの外お用ゐにはなるまい。
 手跡の美事な方になほ三宅恒子さん。薄倖の運命を辿つた工學士未亡人が居る。お出になるかも知れぬと思つたが入らつしやらなかつた。
 生田花世さんも居られた。遠藤たけの子さんも來た。
 會が終つてから鹽崎とみ子さんにお目にかゝつた。はじめて上京した年、淺草に遊びに行つたら、鴨とでも思つてか、とみ子さんの行くさき/″\を地廻りの惡が附いて廻つたが「私は柔術が得手よ」と聞かされて尻尾を卷いて逃げた咄がある。五尺三寸は越えてゐるから、その上に柔術がえ手だと聞いては女でも相手にしにくい筈だ。
 河井さんの周圍に集つた當年の少女達で、地方に居る方は兎もかくも、東京ずまひの人は皆來るだらうと思つたが、前田河廣一郎氏夫人や吉屋信子さんや河野槇子さんなどの缺席したのは意外だつた。吉屋さんは正直の處、書きぶりも考へ方も女らしく無かつたので女子文壇へは滅多に採らなかつた。今思へばふくろの中の錐だつた。其末を見ることの出來なかつたのは私の過失であつた。河野まき子さんは三輪田女學校に在る中から羨望仰視の中に立つてゐたが、小學校に教鞭をとるに至つてあたら天才は縮んでしまつた。
 平塚白百合さんは藤澤に入らしたので、會へは出なかつたが、春になつて令弟と一しよに筑波の西へ來られた。夫君は今を時めく勅任官であるから、お茶を召上るにもお箸を執るにも小笠原が離れず。夜、奧の間へ寢に入らしたあとを、妻が茶道具をかたつけて引き取らうとしたら、平塚さんはまだ帶さへ解かずに襖のかげに手を附いて待つてゐた。妻はすつかり參つて、肩のこりが三日も取れなかつた。
 それから十日ほどたつてからだつた。板倉鳥子さんが古河から自動車を飛ばしてはじめて常陸へ來た。華族は違つたものだと冷かすと、あひ變らずお口が惡いのねとは答へたが、歸りは百合子を負ぶつた妻と停車場まで歩いて往つた。私が鳥子さんを知つたのは滿十四歳の時からで、新聞に散見する熟字や成語の意味を聞かれて教へてあげた頃から數へると、隨分久しいものである。長塚節が「まくらがの古河のひめ桃ふふめるをいまだ見ねど…

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