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独身
どくしん
作品ID3614
著者森 鴎外
文字遣い新字新仮名
底本 「普請中 青年 森鴎外全集2」 ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年7月24日
初出「スバル」1910(明治43)年1月
入力者鈴木修一
校正者松永正敏
公開 / 更新2003-09-04 / 2016-02-06
長さの目安約 19 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

       壱

 小倉の冬は冬という程の事はない。西北の海から長門の一角を掠めて、寒い風が吹いて来て、蜜柑の木の枯葉を庭の砂の上に吹き落して、からからと音をさせて、庭のあちこちへ吹き遣って、暫くおもちゃにしていて、とうとう縁の下に吹き込んでしまう。そういう日が暮れると、どこの家でも宵のうちから戸を締めてしまう。
 外はいつか雪になる。おりおり足を刻んで駈けて通る伝便の鈴の音がする。
 伝便と云っても余所のものには分かるまい。これは東京に輸入せられないうちに、小倉へ西洋から輸入せられている二つの風俗の一つである。常磐橋の袂に円い柱が立っている。これに広告を貼り附けるのである。赤や青や黄な紙に、大きい文字だの、あらい筆使いの画だのを書いて、新らしく開けた店の広告、それから芝居見せものなどの興行の広告をするのである。勿論柱はただ一本だけであって、これに張るのと、大門町の石垣に張る位より外に、広告の必要はない土地なのだから、印刷したものより書いたものの方が多い。画だっても、巴里の町で見る affiche のように気の利いたのはない。しかし兎に角広告柱があるだけはえらい。これが一つ。
 今一つが伝便なのである。Heinrich von Stephan が警察国に生れて、巧に郵便の網を天下に布いてから、手紙の往復に不便はないはずではあるが、それは日を以て算し月を以て算する用弁の事である。一日の間の時を以て算する用弁を達するには、郵便は間に合わない。Rendez-vous をしたって、明日何処で逢おうなら、郵便で用が足る。しかし性急な変で、今晩何処で逢おうとなっては、郵便は駄目である。そんな時に電報を打つ人もあるかも知れない。これは少し牛刀鶏を割く嫌がある。その上厳めしい配達の為方が殺風景である。そういう時には走使が欲しいに違ない。会杜の徽章の附いた帽を被って、辻々に立っていて、手紙を市内へ届けることでも、途中で買って邪魔になるものを自宅へ持って帰らせる事でも、何でも受け合うのが伝便である。手紙や品物と引換に、会社の印の据わっている紙切をくれる。存外間違はないのである。小倉で伝便と云っているのが、この走使である。
 伝便の講釈がつい長くなった。小倉の雪の夜に、戸の外の静かな時、その伝便の鈴の音がちりん、ちりん、ちりん、ちりんと急調に聞えるのである。
 それから優しい女の声で「かりかあかりか、どっこいさのさ」と、節を附けて呼んで通るのが聞える。植物採集に持って行くような、ブリキの入物に花櫚糖を入れて肩に掛けて、小提灯を持って売って歩くのである。
 伝便や花櫚糖売は、いつの時侯にも来るのであるが、夏は辻占売なんぞの方が耳に附いて、伝便の鈴の音、花櫚糖売の女の声は気に留まらないのである。
 こんな晩には置炬燵をする人もあろう。しかし実はそれ程寒くはない。
 翌朝手水鉢に氷が…

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