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薄紅梅
うすこうばい
作品ID3663
著者泉 鏡花
文字遣い新字新仮名
底本 「泉鏡花集成10」 ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年7月24日 
入力者門田裕志
校正者染川隆俊
公開 / 更新2008-11-22 / 2014-09-21
長さの目安約 125 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

       一

 麹町九段――中坂は、武蔵鐙、江戸砂子、惣鹿子等によれば、いや、そんな事はどうでもいい。このあたりこそ、明治時代文芸発程の名地である。かつて文壇の梁山泊と称えられた硯友社、その星座の各員が陣を構え、塞頭高らかに、我楽多文庫の旗を飜した、編輯所があって、心織筆耕の花を咲かせ、綾なす霞を靉靆かせた。
 若手の作者よ、小説家よ!……天晴れ、と一つ煽いでやろうと、扇子を片手に、当時文界の老将軍――佐久良藩の碩儒で、むかし江戸のお留守居と聞けば、武辺、文道、両達の依田学海翁が、一夏土用の日盛の事……生平の揚羽蝶の漆紋に、袴着用、大刀がわりの杖を片手に、芝居の意休を一ゆがきして洒然と灰汁を抜いたような、白い髯を、爽に扱きながら、これ、はじめての見参。……
「頼む。」
 があいにく玄関も何もない。扇を腰に、がたがたと格子を開けると、汚い二階家の、上も下も、がらんとして、ジイと、ただ、招魂社辺の蝉の声が遠く沁込む、明放しの三間ばかり。人影も見えないのは、演義三国誌常套手段の、城門に敵を詭く計略。そこは先生、武辺者だから、身構えしつつ、土間取附の急な階子段を屹と仰いで、大音に、
「頼もう!」
 人の気勢もない。
「頼もう。」
 途端に奇なる声あり。
「ダカレケダカ、ダカレケダカ。」
 その音、まことに不気味にして、化猫が、抱かれたい、抱かれたい、と天井裏で鳴くように聞える。坂下の酒屋の小僧なら、そのまま腰を抜かす処を、学海先生、杖の手に気を入れて、再び大音に、
「頼む。」
「ダカレケダカ、と云ってるじゃあないか。へん、野暮め。」
「頼もう。」
「そいつも、一つ、タカノコモコ、と願いたいよ。……何しろ、米八、仇吉の声じゃないな。彼女等には梅柳というのが春だ。夏やせをする質だから、今頃は出あるかねえ。」
「頼むと申す……」
「何ものだ。」
 と、いきなり段の口へ、青天の雷神が倒めったように這身で大きな頭を出したのは、虎の皮でない、木綿越中の素裸――ちょっと今時の夫人、令嬢がたのために註しよう――唄に……
……どうすりゃ添われる縁じゃやら、じれったいね……
 というのがある。――恋は思案のほか――という折紙附の格言がある。よってもって、自から称した、すなわちこれ、自劣亭思案外史である。大学中途の秀才にして、のぼせを下げる三分刈の巨頭は、入道の名に謳われ、かつは、硯友社の彦左衛門、と自から任じ、人も許して、夜討朝駆に寸分の油断のない、血気盛の早具足なのが、昼寝時の不意討に、蠅叩もとりあえず、ひたと向合った下土間の白い髯を、あべこべに、炎天九十度の物干から、僧正坊が覗いたか、と驚いた、という話がある。

       二

 おなじ人が、金三円ばかりなり、我楽多文庫売上の暮近い集金の天保銭……世に当百ときこえた、小判形が集まったのを、引攫って、目ざす吉原、全盛の北の…

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