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蟹の怪
かにのかい
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「日本の怪談(二)」 河出文庫、河出書房新社
1986(昭和61)年12月4日
入力者Hiroshi_O
校正者小林繁雄、門田裕志
公開 / 更新2003-08-13 / 2014-09-17
長さの目安約 12 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 お種は赤い襷をかけ白地の手拭を姉様冠りにして洗濯をしていた。そこは小さな谷川の流れが岩の窪みに落ち込んで釜の中のようになった処であった。お種は涼しいその水の上に俯向いて一心になって汚れ物を揉んでいた。
 そこは土佐の高岡郡、その当時の佐川領になった長野から戸波へ越す日浦坂の麓であった。そして、お種の洗濯している谷川の流れは、日浦坂の上にある、ほど落ちと云う池から来ているもので、流れは小さいが如何なる炎天にも枯れることがないと云われていた。
 谷川の縁には薊の花が咲き青芒の葉が垂れて、それが流れの上にしなえて米粒のような泡をからめていた。お種はもう三枚目の衣を洗いあげて絞って岩の上に置き、脚下に浸してあった浅黄の股引を執って洗いだしたが、右の肩のあたりが硬ばって苦しいのでちょっと手を休めたところで、
「お種さん」
 と、云って己の名を呼ぶ声がした、お種は何人だろうと思って考えてみたが、耳なれない声であるから猪作でもなければ伝蔵でもないと思った。お種はその声が猪作でないことはうれしかったが、伝蔵でないと知った時にはものたりなかった。お種は猪作でもない伝蔵でもないとしたら何人が呼んだろうと思いながら、見るともなしに水の上に眼をやった。朝陽を受けて水に映った己の影の上に、その時大きな物の影がふうわりとかかったが、それは人間の手のような、また見ようによっては蟹の鋏のようにも見える鬼魅の悪いものだった。お種ははっとした。
「お種さん、お種さん」
 と、初めの声がまた呼んだ。お種は気が注いて揮りかえった。紫色の振袖を着た十五六の女のような少年が道の上に立っていた。お種は一眼見て何処かのお寺の稚児さんだろうと思った。
「お種さんは、私を忘れたの」
 と、少年はにっと笑った。お種はどうしてもその少年に見覚えがなかった。お種はしかたなしに、
「どなたでございましたか」
 と、云ったがひどく恥かしくて顔のほてるのを覚えた。
「今に判ります、それでは、また近いうちにお眼にかかります」
 と、少年はまたにっと笑って体の向きをかえ、日浦坂の方へ歩いていった。お種はうっとりとなってその後姿を見送りながら、あんなに親しく口を利くからには知っている人にちがいないが、何処で逢った人だろうと考えてみたがどうしても思いだせなかった。ただ、ああして日浦坂の方へ往くところを見ると、積善寺の稚児さんであろう、積善寺なら彼処のお薬師様へは、時おり参詣したことがあるからと思った。
 お種は何時の間にか体を真直にしていた。少年の姿はすぐ雑木の陰に隠れてしまったが、お種はうっとりとなってそのまま立っていた。

 お種はその日の夕方、母親といっしょに平生のように夕飯の準備をしたが、その準備ができて家内の者が食事をはじめているのに、裏口の微暗い蚊の声のする処にぽつねんと立っていた。それを見て母親が云った。
「お種…

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