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本の事
ほんのこと
作品ID3741
著者芥川 竜之介
文字遣い新字旧仮名
底本 「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」 筑摩書房
1971(昭和46)年6月5日
入力者土屋隆
校正者松永正敏
公開 / 更新2007-08-03 / 2014-09-21
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     各国演劇史

 僕は本が好きだから、本の事を少し書かう。僕の持つてゐる洋綴の本に、妙な演劇史が一冊ある。この本は明治十七年一月十六日の出版である。著者は東京府士族、警視庁警視属、永井徹と云ふ人である。最初の頁にある所蔵印を見ると、嘗は石川一口の蔵書だつたらしい。序文に、「夫演劇は国家の活歴史にして、文盲の早学問なり。故に欧洲進化の国に在ては、縉紳貴族皆之を尊重す。而してその隆盛に至りし所以のものは、有名の学士羅希に出て、之れが改良を謀るに由る。然るに吾邦の学者は夙に李園(原)を鄙み、措て顧みざるを以て、之を記するの書、未嘗多しとせず。即文化の一具を欠くものと謂可し。(中略)余茲に感ずる所あり。寸暇を得るの際、米仏等の書を繙き、その要領を纂訳したるもの、此冊子を成す。因て之を各国演劇史と名く」とある。羅希に出た有名の学士とは、希臘や羅馬の劇詩人だと思ふと、それだけでも微笑を禁じ得ない。本文にはさんだ、三葉の銅版画の中には、「英国俳優ヂオフライ空窖へ幽囚せられたる図」と云ふのがある。その画が又どう見ても、土の牢の景清と云ふ気がする。ヂオフライは勿論 Geoffrey であらう。英吉利の古代演劇史を知るものには、これも噴飯に堪へないかも知れない。次手に本文の一節を引けば、「然るに千五百七十六年女王エリサベスの時代に至り、始めて特別演劇興業の為め、ブラツク・フラヤス寺院の不用なる領地に於て劇場を建立したり。之を英国正統なる劇場の始祖とす。而て此はレスター伯に属し、ゼームス・ボルベージ之が主宰たり。俳優にはウイリヤム・セキスピヤと云へる人あり。当時は十二歳の児童なりしが、ストラタフオルドの学校にて、羅甸並に希臘の初学を卒業せしものなり」と云ふのがある。俳優にはウイリヤム・セキスピヤと云へる人あり! 三十何年か前の日本は、髣髴とこの一語に窺ふ事が出来る。この本は希覯書でも何でもあるまい。が、僕はかう云ふ所に、捨て難いなつかしみを感じてゐる。もう一つ次手に書き加へるが、僕は以前物好きに、明治十年代の小説を五十種ばかり集めて見た。小説そのものは仕方がない。しかしあの時代の活字本には、当世の本よりも誤植が少い。あれは一体世の中が、長閑だつたのにもよるだらうが、僕はやはりその中に、篤実な人心が見えるやうな気がする。誤植の次手に又思ひだしたが、何時か石印本の王建の宮詞を読んでゐたら、「御池水色春来好、処処分流白玉渠、密奏君王知入月、喚人相伴洗裙裾」と云ふ詩の、入月が入用と印刷してあつた。入月とは女の月経の事である。(詩中月経を用ひたのは、この宮詞に止まるかも知れない。)入用では勿論意味が分らない。僕はこの誤にぶつかつてから、どうも石印本なるものは、一体に信用出来なくなつた。何だか話が横道へそれたが、永井徹著の演劇史以前に、こんな著述があつたかどうか、それが未に疑問である…

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