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鸚鵡
おうむ
作品ID3763
副題――大震覚え書の一つ――
――だいしんおぼえがきのひとつ――
著者芥川 竜之介
文字遣い新字旧仮名
底本 「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」 筑摩書房
1971(昭和46)年6月5日
入力者土屋隆
校正者松永正敏
公開 / 更新2007-07-13 / 2014-09-21
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 これは御覧の通り覚え書に過ぎない。覚え書を覚え書のまま発表するのは時間の余裕に乏しい為である。或は又その外にも気持の余裕に乏しい為である。しかし覚え書のまま発表することに多少は意味のない訣でもない。大正十二年九月十四日記。

 本所横網町に住める一中節の師匠。名は鐘大夫。年は六十三歳。十七歳の孫娘と二人暮らしなり。
 家は地震にも潰れざりしかど、忽ち近隣に出火あり。孫娘と共に両国に走る。携へしものは鸚鵡の籠のみ。鸚鵡の名は五郎。背は鼠色、腹は桃色。芸は錺屋の槌の音と「ナアル」(成程の略)といふ言葉とを真似るだけなり。
 両国より人形町へ出づる間にいつか孫娘と離れ離れになる。心配なれども探してゐる暇なし。往来の人波。荷物の山。カナリヤの籠を持ちし女を見る。待合の女将かと思はるる服装。「こちとらに似たものもあると思ひました」といふ。その位の余裕はあるものと見ゆ。
 鎧橋に出づ。町の片側は火事なり。その側に面せるに顔、焼くるかと思ふほど熱かりし由。又何か落つると思へば、電線を被へる鉛管の火熱の為に熔け落つるなり。この辺より一層人に押され、度たび鸚鵡の籠も潰れずやと思ふ。鸚鵡は始終狂ひまはりて已まず。
 丸の内に出づれば日比谷の空に火事の煙の揚がるを見る。警視庁、帝劇などの焼け居りしならん。やつと楠の銅像のほとりに至る。芝の上に坐りしかど、孫娘のことが気にかかりてならず。大声に孫娘の名を呼びつつ、避難民の間を探しまはる。日暮。遂に松のかげに横はる。隣りは店員数人をつれたる株屋。空は火事の煙の為、どちらを見てもまつ赤なり。鸚鵡、突然「ナアル」といふ。
 翌日も丸の内一帯より日比谷迄、孫娘を探しまはる。「人形町なり両国なりへ引つ返さうといふ気は出ませんでした」といふ。午ごろより饑渇を覚ゆること切なり。やむを得ず日比谷の池の水を飲む。孫娘は遂に見つからず。夜は又丸の内の芝の上に横はる。鸚鵡の籠を枕べに置きつつ、人に盗まれはせぬかと思ふ。日比谷の池の家鴨を食らへる避難民を見たればなり。空にはなほ火事の明りを見る。
 三日は孫娘を断念し、新宿の甥を尋ねんとす。桜田より半蔵門に出づるに、新宿も亦焼けたりと聞き、谷中の檀那寺を手頼らばやと思ふ。饑渇愈甚だし。「五郎を殺すのは厭ですが、おちたら食はうと思ひました」といふ。九段上へ出づる途中、役所の小使らしきものにやつと玄米一合余りを貰ひ、生のまま噛み砕きて食す。又つらつら考へれば、鸚鵡の籠を提げたるまま、檀那寺の世話にはなられぬやうなり。即ち鸚鵡に玄米の残りを食はせ、九段上の濠端よりこれを放つ。薄暮、谷中の檀那寺に至る。和尚、親切に幾日でもゐろといふ。
 五日の朝、僕の家に来る。未だ孫娘の行く方を知らずといふ。意気な平生のお師匠さんとは思はれぬほど憔悴し居たり。
 附記。新宿の甥の家は焼けざりし由。孫娘は其処に避難し居りし由。…

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