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氷雨
ひさめ
作品ID379
著者葉山 嘉樹
文字遣い新字旧仮名
底本 「筑摩現代文学大系 36 葉山嘉樹集」 筑摩書房
1979(昭和54)年2月25日
入力者大野裕
校正者高橋真也
公開 / 更新1999-10-04 / 2014-09-17
長さの目安約 15 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

    一

 暗くなつて来た。十間許り下流で釣つてゐる男の子の姿も、夕暗に輪廓がぼやけて来た。女の子は堤の上で遊んでゐたが、さつき、
「お父さん、雨が降つて来たよ」
 と、私に知らせに来た。
「どこかで雨を避けておいで」
 と返事をしたまま、私は魚を釣り続けてゐたのだが、堤には小さな胡桃の木以外には生えてゐなかつた。それも秋も深んだ今では、すつかり葉を落してしまつて、裸で立つてゐるのだつた。
 兄の方が、釣り竿を堤防の石垣の穴にさし込んどいて、
「かうして屋根を葺くんだよ」
 と云つて、堤の上に乾してあつた乾草を胡桃の枝に渡して、屋根を葺いてやつた。
 多分この乾草は、軍に献納した馬糧の残りであらう。その一ヶ月前位に、農民たちは腹までも川の水に浸つて、三角洲に生えた丈の長い草を苅りに、川を渡つて行つたのを私は見てゐたから。
 いつもなら、子供たちは、「もう帰らうよ、暗くなつたぢやないか」だとか、「お父さんは未だお腹が空かないの」とか云つて帰りをせき立てるのだが、今日は「帰らう」とは云はなかつた。
 高原の秋は寒かつた。日は暮れ、雨さへも降り出したので、寒さは又増した。子供たちの心の中にも心細さが増したであらう、と云ふことも私には分つてゐた。
 私は尺に近い赤魚を、サンザン苦労して引つ張り上げ、魚籠に入れる直前に落した。
 私の心の中は「心細さ」と云ふやうな感じはなかつた。そんな風に一色では片附けられる感情ではなかつた。魚を落すのも、私の心が一と所に落ちついてゐないからだつた。
 このやうな夕暮が、私たちの上に襲ひかかるであらう、と云ふことは、昨日や一昨日から予感してゐた事ではなかつた。もつともつと永い前から分つてゐた事であつた。だが、それに対応する策を個人的に取る事が出来ると云ふやうな事柄ではなかつた。
 私は頭の中に湧き起つて来る、様々の懸念や妄想を、釣りをする、と云ふ事で追つ払ふ為になるべく人の居ない――たとひ魚は釣れなくとも――処を選んで、来るのが慣はしであつた。
 その日は昼食を食つてから、私たち親子三人は、私と息子は釣りをする為に、娘は蝗を捕るために、家を出たのだつた。
 そして、家を出る時に、小学校に今年上つた女の児が、
「お母あさん。もうお米がないのね」
 と、米櫃を覗き込んで云つたのだつた。
 日曜だつたので、小学校四年の男の子も、私もそれを聞いてゐた。私の場合では聞かなくても知つてゐた。その為の打開策を、もう三年以上も考へあぐんでゐたのだつた。
 が、子供たちには、その日、米櫃が空になつてゐることが、何かギクッと来たらしかつた。
 町中の雰囲気や、駅頭の雰囲気と、子供たちの生活の本拠の家の中の雰囲気とが、何か違つたものを感じたのであらう。
 華々しいもの、潔いもの、勇壮なるもの、さう云つたものから、子供の家へ帰ると、ひつそりと沈んだ冷え冷…

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