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二人の友
ふたりのとも
作品ID3822
著者芥川 竜之介
文字遣い新字旧仮名
底本 「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」 筑摩書房
1971(昭和46)年6月5日
入力者土屋隆
校正者松永正敏
公開 / 更新2007-08-03 / 2014-09-21
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より




 僕は一高へはひつた時、福間先生に独逸語を学んだ。福間先生は鴎外先生の「二人の友」の中のF君である。「二人の友」は当時はまだ活字になつてはいなかつたであらう。少くとも僕などのそんなことを全然知らなかつたのは確かである。
 福間先生は常人よりも寧ろ背は低かつたであらう。何でも金縁の近眼鏡をかけ、可成長い口髭を蓄へてゐられたやうに覚えてゐる。
 僕等は皆福間先生に或親しみを抱いてゐた。それは先生も青年のやうに諧謔を好んでゐられたからである。先生は一学期の或時間に久米正雄にかう言はれた。
「君にはこの言葉の意味がクメとれないんですか?」
 久米も亦忽ち洒落を以て酬いた。
「ええ、ちよつとわかりません。どう言ふ意味がフクマつてゐるか」
 福間先生は二学期からいきなり僕等にゲラアデ・アウスと云ふギズキイの警句集を教へられた。僕等の新単語に悩まされたことは言ふを待たないのに違ひない。僕は未だにその本にあつた、シユタアツ・ヘモロイダリウスと云ふ、不可思議な言葉を記憶してゐる。この言葉は恐らくは一生の間、薄暗い僕の脳味噌のどこかに木の子のやうに生えてゐるであらう。僕はそんなことを考へると、いつも何か可笑しい中に儚い心もちも感じるのである。
 福間先生の死なれたのは僕等の二年生になつた時か、それとも三年生になつた時か、生憎はつきりと覚えてゐない。が、その一週間か二週間か前に今の恒藤恭――当時の井川恭と一しよにお見舞に行つたことは覚えてゐる。先生はベツドに仰臥されたまま、たつた一言「大分好い」と言はれた。しかし実際は「大分好い」よりも寧ろ大分悪かつたのであらう。現に先生の奥さんなどは愁はしい顔をしてゐられたものである。
 或曇つた冬の日の午後、僕等は皆福間先生の柩を今戸のお寺へ送つて行つた、お葬式の導師になつたのはやはり鴎外先生の「二人の友」の中の「安国寺さん」である。「安国寺さん」は式をすませた後、本堂の前に並んだ僕等に寂滅為楽の法を説かれた。「北[#挿絵]山頭一片の煙となり、」――僕は度たび「安国寺さん」のそんなことを言はれたのを覚えてゐる。同時に又丁度その最中に糠雨の降り出したのも覚えてゐる。
 僕はこの短い文章に「二人の友」と云ふ題をつけた。それは勿論鴎外先生の「二人の友」を借用したのである。けれども今読み返して見ると、僕も亦偶然この文章の中に二人の友だちの名を挙げてゐた。福間先生にからかはれたのは必しも久米に限つたことではない。先生はむづかしい顔をされながら、井川にもやはりかう言はれた。
「そんな言葉がわからなくてはイカハ。」
(大正十五年一月)



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