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硯友社の沿革
けんゆうしゃのえんかく
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「明治の文学 第6巻 尾崎紅葉」 筑摩書房
2001(平成13)年2月20日
初出「新小説 第6年第1巻」1901(明治34)年1月1日
入力者門田裕志
校正者多羅尾伴内
公開 / 更新2004-12-22 / 2014-09-18
長さの目安約 21 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

夙て硯友社の年代記を作つて見やうと云ふ考を有つて居るのでありますが、書いた物は散佚して了ふし、或は記憶から消え去つて了つた事実などが多い為に、迚も自分一人で筆を執るのでは、十分な事を書く訳には行かんのでありますから、其の当時往来して居つた人達に問合せて、各方面から事実を挙げなければ、沿革と云ふべき者を書く事は出来ません、
其に就て不便な事は、其昔朝夕に往来して文章を見せ合つた仲間の大半は、始から文章を以て身を立る志の人でなかつたから、今日では実業家に成つて居るのも有れば工学家に成つて居るのも有る、其他裁判官も有る、会社員も有る、鉄道の駅長も有る、中には行方不明なのも有る、物故したのも有る、で、銘々業が違ふからして自から疎遠に成る、長い月日には四方に散じて了つて、此方も会ふのが億劫で、いつか/\と思ひながら、今だに着手もせずに居ると云ふ始末です、今日お話を為るのは些の荒筋で、年月などは別して記憶して居らんのですから、随分私の思違ひも多からうと思ひます、其は他日善く正します、
抑も硯友社の起つたに就ては、私が山田美妙君(其頃別号を樵耕蛙船と云ひました)と懇意に成つたのが、其の動機でありますから、一寸其の交際の大要を申上げて置く必要が有る、明治十五年の頃でありましたか東京府の構内に第二中学と云ふのが在りました、一ツ橋内の第一中学に対して第二と云つたので、それが私が入学した時に、私より二級上に山田武太郎なる少年が居つたのですが、此少年は其の級中の年少者で在りながら、漢文でも、国文でも、和歌でも、詩でも、戯作でも、字も善く書いたし、画も少しは遣ると云つたやうな多芸の才子で、学課も中以上の成績であつたのは、校中評判の少年でした、私は十四五の時分はなか/\の暴れ者で、課業の時間を迯げては運動場へ出て、瓦廻しを遣る、鞦韆飛を遣る、石ぶつけでも、相撲でも撃剣の真似でも、悪作劇は何でも好でした、(尤も唯今でも余り嫌ひの方ではない)然るに山田は極温厚で、運動場へ出て来ても我々の仲間に入つた事などは無い、超然として独り静に散歩して居ると云つたやうな風で、今考へて見ると、成程年少詩人と云つた態度がありましたよ、其が甚麼機で相近く事に成つたのであるか、どうも覚えませんけれど、いつかフレンドシツプが成立つたのです、
尤も段々話合つて見ると、五六才の時分には同じ長屋の一軒置いた隣同士で、何でも一緒に遊んだ事も有つたらしいので、那様事から一層親密に成つて、帰路も同じでありましたから連立つても帰る、家へ尋ねて行く、他も来る、そこで学校外の交を結ぶやうに成つたのです、
私は程無く右の中学を出て、芝の愛宕下町に在つた、大学予備門の受験科専門の三田英学校と云ふのに転学しました、それから大学予備門に入つて二年経つ迄、山田とは音信不通の状で居たのです、其には別に理由も何も無い、究竟学校が違つて了つた所か…

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