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翔び去る印象
とびさるいんしょう
作品ID3847
著者宮本 百合子
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十七巻」 新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日
初出「国際知識」1924(大正13)年11月号
入力者柴田卓治
校正者磐余彦
公開 / 更新2003-11-18 / 2014-09-18
長さの目安約 2 ページ(500字/頁で計算)

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本文より




 十月の澄んだ秋の日に、北部太平洋が濃い藍色に燦いた。波の音は聴えない。つめたそうに冴え冴え遠い海面迄輝いている。船舶の太い細い煙筒が玩具のように鮮かにくっきり水平線に立っていた。
 空には雲もなく、四辺は森としている。何の物音もしない。
 樹林の間はしめっぽくひいやりした。日向に出ると穏やかに暖かで、白い砂利路の左に色づいたメイプルの葉が、ぱっとした褪紅色に燃えていた。空気は極軽く清らかで威厳に満ちているので、品のよい華やかな色が、眩惑と哀愁を与えた。
 黒い帽子の婦人が、黒い犬をつれ、通りすぎた。――
 何の音もしない。
 海の色が益々冴え、太陽は高く小さく透明な十月を呼吸している。
――ヴィクトリアの秋――

 これは、半熱帯の永劫冬にならない晩秋だ。夕暮、サラサラした砂漠の砂は黄色い。鳥や獣の足跡も其上になく、地平線に、黒紫の孤立したテイブル・ランドの陰気な輪廓が見える。低い、影の蹲ったようないら草の彼方此方から、巨大な仙人掌がぬうっと物懶く突立っていた。
 高さ十五呎もある其等の奇怪な植物は、広い砂漠の全面を被う墓標のように見えた。凝っと立ち、同化作用も営まない。――
 そうかと思うと、彼等は俄に生きものらしい衝動的なざわめきを起し、日が沈んだばかりの、熱っぽい、藍と卵色の空に向って背延びをしようと動き焦るように思われる。
 夜とともに、砂漠には、底に潜んだほとぼりと、当途ない漠然とした不安が漲った。
 稲妻が、テイブル・ランドの頂で閃いた。月はない。半睡半醒の夜は過敏だ。
――アリゾナ――

 青みどろの蔓った一つの沼。
 四辺一面草の茂った沢地なので、何処からその沼が始っているか見当がつかない。
 一隅に、四抱えもある大柳が重い葉をどんより沼の上に垂れていた。柳には、乾いた藻のような寄生木が、ぼさぼさ一杯ぶら下っている。沼気の籠った、むっとする暑苦しさ。日光まで、際限なく単調なミシシッピイの秋には飽き果てたように、萎え疲れて澱んでいる。とある、壊れた木柵の陰から男が一人出て来た。
 彼の皮膚は濃い茶色だ。鍔広のメキシコ帽をかぶり……
 空は水蒸気の多い水浅黄だ。植物は互に縺れこんぐらかって悩ましく鬱葱としている。彼の飾帯はその裡で真紅であった。強烈な色彩がいつまでも、遠くから見えた。
――ミシシッピイ――
〔一九二四年十一月〕



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