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疑惑
ぎわく
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「芥川龍之介全集3」 ちくま文庫、筑摩書房
1986(昭和61)年12月1日
初出「中央公論」1919(大正8)年7月
入力者j.utiyama
校正者かとうかおり
公開 / 更新1998-12-08 / 2014-09-17
長さの目安約 25 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 今ではもう十年あまり以前になるが、ある年の春私は実践倫理学の講義を依頼されて、その間かれこれ一週間ばかり、岐阜県下の大垣町へ滞在する事になった。元来地方有志なるものの難有迷惑な厚遇に辟易していた私は、私を請待してくれたある教育家の団体へ予め断りの手紙を出して、送迎とか宴会とかあるいはまた名所の案内とか、そのほかいろいろ講演に附随する一切の無用な暇つぶしを拒絶したい旨希望して置いた。すると幸私の変人だと云う風評は夙にこの地方にも伝えられていたものと見えて、やがて私が向うへ行くと、その団体の会長たる大垣町長の斡旋によって、万事がこの我儘な希望通り取計らわれたばかりでなく、宿も特に普通の旅館を避けて、町内の素封家N氏の別荘とかになっている閑静な住居を周旋された。私がこれから話そうと思うのは、その滞在中その別荘で偶然私が耳にしたある悲惨な出来事の顛末である。
 その住居のある所は、巨鹿城に近い廓町の最も俗塵に遠い一区劃だった。殊に私の起臥していた書院造りの八畳は、日当りこそ悪い憾はあったが、障子襖もほどよく寂びのついた、いかにも落着きのある座敷だった。私の世話を焼いてくれる別荘番の夫婦者は、格別用のない限り、いつも勝手に下っていたから、このうす暗い八畳の間は大抵森閑として人気がなかった。それは御影の手水鉢の上に枝を延ばしている木蓮が、時々白い花を落すのでさえ、明に聞き取れるような静かさだった。毎日午前だけ講演に行った私は、午後と夜とをこの座敷で、はなはだ泰平に暮す事が出来た。が、同時にまた、参考書と着換えとを入れた鞄のほかに何一つない私自身を、春寒く思う事も度々あった。
 もっとも午後は時折来る訪問客に気が紛れて、さほど寂しいとは思わなかった。が、やがて竹の筒を台にした古風なランプに火が燈ると、人間らしい気息の通う世界は、たちまちそのかすかな光に照される私の周囲だけに縮まってしまった。しかも私にはその周囲さえ、決して頼もしい気は起させなかった。私の後にある床の間には、花も活けてない青銅の瓶が一つ、威かつくどっしりと据えてあった。そうしてその上には怪しげな楊柳観音の軸が、煤けた錦襴の表装の中に朦朧と墨色を弁じていた。私は折々書見の眼をあげて、この古ぼけた仏画をふり返ると、必ず[#挿絵]きもしない線香がどこかで[#挿絵]っているような心もちがした。それほど座敷の中には寺らしい閑寂の気が罩っていた。だから私はよく早寝をした。が、床にはいっても容易に眠くはならなかった。雨戸の外では夜鳥の声が、遠近を定めず私を驚かした。その声はこの住居の上にある天主閣を心に描かせた。昼見るといつも天主閣は、蓊鬱とした松の間に三層の白壁を畳みながら、その反り返った家根の空へ無数の鴉をばら撒いている。――私はいつかうとうとと浅い眠に沈みながら、それでもまだ腹の底には水のような春寒が漂っているの…

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