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葭の影にそえて
よしのかげにそえて
作品ID3915
著者宮本 百合子
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十七巻」 新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日
初出「葭の影」中條葭江(母)追悼録のあとがき、1935(昭和10)年7月発行
入力者柴田卓治
校正者磐余彦
公開 / 更新2003-12-03 / 2014-09-18
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より




 昨年の六月母が逝いて後、私たちの念願は生前母が書きのこしていた様々の思い出や日記類を、一年祭までにとりまとめ一冊の本として記念したいと云う事であった。
 生前母は文筆を好んだ。若い頃にはよく読書をもした。特に昭和三年、三男英男を失ってから、母は以前にもまして自身の情熱を文章として表現したいという熱望を抱くようになったとともに、既にその頃は糖尿病が重り、視力衰弱して読書執筆については全く不如意な健康状態におかれていたのであった。それにもかかわらず、昭和四年五月から十一月まで凡そ七ヵ月に亙る一家の欧州旅行にあたって、終始その旅日記を書きとおしたのは、ほかならぬ目の不自由な母であった。多人数の落つかぬ外国旅行の刻々に印象された見聞、感想をこと細々とよくこのように書いたものと、今日読みかえして母の体の内にかくされていた根気と熱心とに打たれるのである。
 書かれた感想の中に母の性格が全幅的に反映している事はもとよりであるが、子として更に懐かしい一人の婦人としての母の或る力は、雑多な困難と闘いながら一つの旅日記にせよ、よく最後まで書きとおした一事にこもっていると思われるのである。母は楽んで毎月この旅日記の一部分ずつを雑誌『弘道』に掲載していた。別に書斎というものを持たず、食堂の長テーブルの正面に座り、背あかりを受けつつ一冊十五銭ぐらいの帳面の上にかがみこんでは、父からある年の誕生日のおくりものとして貰った万年筆を毛糸の袋からとり出して動かしていた母の姿こそ私共に親愛な母の俤である。昨年五月発病当時も母は例の旅日記の下書きを整理中であったが、遂にそれを自身の手で完結する事が出来ず長逝したのであった。母が幼年及び少女時代を過した築地向島時代の思い出には、明治開化期前後の東京生活が髣髴として興味ふかく初霜(明治三十年の日記)には若かりし父母のつつましい日常の姿が簡素な行文の間に愛らしく子等の前に輝いている。
 頁数その他の関係から、この一冊には母が書きのこしたものの僅か五分の一を収録し得たに過ぎないのは残念である。
 この家族的な雰囲気に満ちた文集『葭の影』一巻は、私達子等をよろこばせ、尽きぬ感想の源泉となるばかりでなく、五ヵ月の相違で、母をその誕生によって悦ばすことの出来なかった太郎や未来のその弟妹たちにとっても、やがて、よき祖母からのおくりものとなるであろうことを確信する。この文集の完成にあたって、私はこのことのかげに在って表には語られていない父の亡き母に対する情愛の貞潔なる濃やかさに、娘として深き感動を抑え難いのである。
 よみ難かった母の原稿の浄書から印刷に関する煩瑣な事務万端について援助を惜しまれなかった私の親友壺井栄夫人に感謝する次第である。
〔一九三五年七月〕



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