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ゆく雲
ゆくくも
作品ID392
著者樋口 一葉
文字遣い旧字旧仮名
底本 「日本現代文學全集 10 樋口一葉集」 講談社
1962(昭和37)年11月19日
入力者青空文庫
校正者小林繁雄、米田進
公開 / 更新1997-10-15 / 2014-09-17
長さの目安約 19 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

       上

 酒折の宮、山梨の岡、鹽山、裂石、さし手の名も都人の耳に聞きなれぬは、小佛さゝ子の難處を越して猿橋のながれに眩めき、鶴瀬、駒飼見るほどの里もなきに、勝沼の町とても東京にての場末ぞかし、甲府は流石に大厦高樓、躑躅が崎の城跡など見る處のありとは言へど、汽車の便りよき頃にならば知らず、こと更の馬車腕車に一晝夜をゆられて、いざ惠林寺の櫻見にといふ人はあるまじ、故郷なればこそ年々の夏休みにも、人は箱根伊香保ともよふし立つる中を、我れのみ一人あし曳の山の甲斐に峯のしら雲あとを消すこと左りとは是非もなけれど、今歳この度みやこを離れて八王子に足をむける事これまでに覺えなき愁らさなり。
 養父清左衞門、去歳より何處[#挿絵]處からだに申分ありて寐つ起きつとの由は聞きしが、常日頃すこやかの人なれば、さしての事はあるまじと醫者の指圖などを申しやりて、此身は雲井の鳥の羽がひ自由なる書生の境界に今しばしは遊ばるゝ心なりしを、先きの日故郷よりの便りに曰く、大旦那さまこと其後の容躰さしたる事は御座なく候へ共、次第に短氣のまさりて我意つよく、これ一つは年の故には御座候はんなれど、隨分あたりの者御機げんの取りにくゝ、大心配を致すよし、私など古狸の身なれば兎角つくろひて一日二日と過し候へ共、筋のなきわからずやを仰せいだされ、足もとから鳥の立つやうにお急きたてなさるには大閉口に候、此中より頻に貴君樣を御手もとへお呼び寄せなさり度、一日も早く家督相續あそばさせ、樂隱居なされ度おのぞみのよし、これ然るべき事と御親類一同の御決義、私は初手から貴君樣を東京へお出し申すは氣に喰はぬほどにて、申しては失禮なれどいさゝかの學問など何うでも宜い事、赤尾の彦が息子のやうに氣ちがひに成つて歸つたも見て居り候へば、もと/\利發の貴君樣に其氣づかひはあるまじきなれど、放蕩ものにでもお成りなされては取返しがつき申さず、今の分にて孃さまと御祝言、御家督引つぎ最はや早きお歳にはあるまじくと大賛成に候、さだめしさだめし其地には遊しかけの御用事も御座候はん夫れ等を然るべく御取まとめ、飛鳥もあとを濁ごすなに候へば、大藤の大盡が息子と聞きしに野澤の桂次は了簡の清くない奴、何處やらの割前を人に背負せて逃げをつたなどゝ斯ふいふ噂があと/\に殘らぬやう、郵便爲替にて證書面のとほりお送り申候へども、足りずば上杉さまにて御立かへを願ひ、諸事清潔にして御歸りなさるべく、金故に恥ぢをお掻きなされては金庫の番をいたす我等が申わけなく候、前申せし通り短氣の大旦那さま頻に待ちこがれて大ぢれに御座候へば、其地の御片つけすみ次第、一日もはやくと申納候、六藏といふ通ひ番頭の筆にて此樣の迎ひ状いやとは言ひがたし。
 家に生拔きの我れ實子にてもあらば、かゝる迎へのよしや十度十五たび來たらんとも、おもひ立ちての修業なれば一ト廉の學問を研かぬほど…

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