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中国文化をちゃんと理解したい
ちゅうごくぶんかをちゃんとりかいしたい
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十七巻」 新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日
初出「新潮」1937(昭和12)年10月号
入力者柴田卓治
校正者磐余彦
公開 / 更新2003-12-06 / 2014-09-18
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)
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本文より




 日本の文学者では、夏目漱石や鴎外などまでが、自身の文学的教養の中に中国文化のあるものを消化していたのだろうと思う。私たちの時代になると、伝統的な中国の文物については教養的に不足して来ているし、実際の生活感情からも遠くなって感情表現の手法としての影響もなく、「古い支那」に対して或るエキゾチシズムがのこされている程度である。新時代の中国の生活について最も多く知るべき筈でありながら、今日まだ十分知っていない。知るための十分な便宜をも欠いている。中国の文化に対して新しい理解と接近の機会をもち得るのはこれからであろうと、期待している。
 私一箇の心持から云っても、中国の文化の様々な特色には強い興味と魅力を感じている。中国の建築・食物・色彩感・日常的商取引の道徳習慣など片々とした知識を材料として考えただけでも、中国の性格が自然に対しても積極的であり、人間の意志を表明すること憚りない傾向を示していることが興味ふかい。
 在来の所謂支那通の人の書くものを読むと、中国の民衆の心持の中に一番つよくあるのは、昔、ロシア人の気質は何につけてもニーチェヴォ(どうでもいいさ。又はかまいやしない)であると云われていたと同じような一種のどうでもよい主義の諦観であると語られているのであるが、果してそれはどうだろう。やはり固定的なものとしては看られないと思う。
 木々高太郎という人は周知の如く科学者であるが、その探偵小説の中で、中国人は金でころばすのが一番早い。日本人はそう行かない、という意味を書いている。これも果してどういうものであろう。
 特徴のように外部から見られている諦観や金銭尊重の傾向も、それを誇大に固定して見れば、一つの偏見になる。これまでの中国の庶民生活の波瀾の歴史を眺めれば、そのよって来たるところも察せられなくはないのである。
 日本評論の九月号に、中国の人々の眼に映った日本人というものが語られていて、その場合、或る種の読者は周囲にある社会生活の現実から、〔三十一字分伏字〕がある。中国文化に対する私共作家の理解は、何卒そういう感を、進歩的であり誠実である中国の人々に抱かせないですむぐらい正確且つ健全な歴史性の動向に沿ったものでありたいと思う。例えば芥川龍之介氏の支那游記と、〔十三字分伏字〕とでは、既に文化の感情が本質的に違って来ているのである。
 地理的に近いのに日本の文学者がせめてパール・バックの「大地」ほどの作品をも生んでいないのは、明治以来の日本と中国との〔十五字分伏字〕文化に反映している結果であると思う。
〔一九三七年十月〕



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