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兵馬倥偬の人
へいばこうそうのひと
作品ID4055
著者塚原 渋柿園 / 塚原 蓼洲
文字遣い旧字旧仮名
底本 「明治文學全集89巻 明治歴史文學集」 筑摩書房
1976(昭和51)年1月30日
初出「文章世界 第四巻第一一号」博文館、1909(明治42)年8月
入力者和井府清十郎
校正者松永正敏
公開 / 更新2002-03-11 / 2014-09-17
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私は舊幕府の家來で、十七の時に京都二條の城(今の離宮)の定番といふものになつて行つた。江戸を立つたのが、元治元年の九月で、例の蛤御門の戰のあつてから二個月後の事である。一體私は親子の縁が薄かつたと見えて、その十七の時に兩親に別れてからは、片親と一緒に居る時はあつたが、兩親と一緒に居ることは殆んどなかつた。誠に私が非常な窮迫の折に死んだ母親の事などを考へると、今でも情けない涙が出る。
 其中に將軍家の長州進發といふ事になつた。それが則ち昭徳院といふ紀州公方――慶喜公の前代の御人である。頗ぶる人望のある御人であつたが大阪の行營で薨ぜられたので、そこで慶喜公が其後を繼いで將軍となられたのである。
 其頃、江戸の、今の水道橋内三崎町の所に講武所といふものがあつた。其所は幕府の家來が槍だとか、劍だとか、柔だとか、鐵砲だとかを稽古するところで、私の親父は其の鎗術の世話心得といふ役に就いて居た。で講武所總體は右の御進發の御供、親父も同じく大阪に滯在するうち徒目附といふ役に轉じた。そこで私も京都の方を廢して、親父と一緒に大阪に來て居た。
 丁度その時は親父の親友に御目附の木城安太郎といふ人が居た。私も其以前から知つて居る人。――何處で聞いたか私の大阪に來てゐるといふことを知つて「直太郎(私)も當地ださうだ。遊んでゐるなら私の家の書生に寄越したら何うだ。」といふ話。親父も喜んで私に話す元來御目附といへば天下の樞機に與る人。其人の家に居れば自然海内の形勢も分かるであらう。私が京都を去つて大阪に來たのも一つは其の當時の形勢入求の趣意であるから、渡りに舟と喜んで、木城氏の所へ行つた。無論其時分は文學者にならう抔といふ料見はない。(尤も今も文學者のつもりでもないが。)むしろさういふ御目附、即ち當時の樞機に參する役人にならうと思つて居た。然しその時分の役人になるといふのは、今のそれとは心持に於いて違つて居る。其時分の我々は何處迄も將軍家の譜代の家來だから、其の役人になるも、金を貰つて身を賣るではなく、主君なる將軍家に我が得た所を以て奉公をする。謂ゆる公儀の御役に立たうといふ極單純な考へであつた。然して此心は大抵な人が皆同じであつたらうと思つて居る。
 兎角するうちに、木城氏は關八州の荒地開墾御用係といふものを命ぜられた。そして御勘定奉行の小栗下總守といふ人と一緒に、大阪から江戸に下つて來た。私もその一行の中に居た。どういふ譯で關八州の開墾をするかといふと、其時分幕府の基礎が大分怪しくなつて來たので、木城氏や小栗氏の考へでは、遠からぬ中に江戸と京都と干戈相見みゆる時が來るであらう、愈々然うなつたら仙臺、會津庄内と東北の同盟を結んで、東海道は箱根、木曾街道は碓井、この両口を堅固に守つて、天下の形勢を見るより外はないといふ、つまり箱根から向う、碓井から先は、止むを得ずんば打捨やる覺悟であつ…

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