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軒もる月
のきもるつき
作品ID4094
著者樋口 一葉
文字遣い新字旧仮名
底本 「全集樋口一葉 第二巻 小説編二〈復刻版〉」 小学館
1979(昭和54)年10月1日、1996(平成8)年11月10日復刻版
初出「毎日新聞」1895(明治28)年4月3、5日
入力者もりみつじゅんじ
校正者浅原庸子
公開 / 更新2003-04-09 / 2014-09-17
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

「我が良人は今宵も帰りのおそくおはしますよ。我が子は早く睡りしに、帰らせ給はゞ興なくや思さん。大路の霜に月氷りて、踏む足いかに冷たからん。炬燵の火もいとよし、酒もあたゝめんばかりなるを。時は今何時にか、あれ、空に聞ゆるは上野の鐘ならん。二ツ三ツ四ツ、八時か、否、九時になりけり。さても遅くおはします事かな、いつも九時のかねは膳の上にて聞き給ふを。それよ、今宵よりは一時づゝの仕事を延ばして、この子が為の収入を多くせんと仰せられしなりき。火気の満たる室にて頸やいたからん、振あぐる鎚に手首や痛からん」
 女は破れ窓の障子を開らきて外面を見わたせば、向ひの軒ばに月のぼりて、此処にさし入る影はいと白く、霜や添ひ来し身内もふるへて、寒気は肌に針さすやうなるを、しばし何事も打わすれたる如く眺め入て、ほと長くつく息、月かげに煙をゑがきぬ。
「桜町の殿は最早寝処に入り給ひし頃か。さらずは燈火のもとに書物をや開き給ふ。然らずは机の上に紙を展べて、静かに筆をや動かし給ふ。書かせ給ふは何ならん、何事かの御打合せを御朋友の許へか、さらずば御母上に御機嫌うかゞひの御状か、さらずば御胸にうかぶ妄想のすて所、詩か歌か。さらずば、さらずば、我が方に賜はらんとて甲斐なき御玉章に勿躰なき筆をや染め給ふ。
 幾度幾通の御文を拝見だにせぬ我れ、いかばかり憎くしと思しめすらん。拝さばこの胸寸断になりて、常の決心の消えうせん覚束なさ。ゆるし給へ、我れはいかばかり憎くき物に覚しめされて、物知らぬ女子とさげすみ給ふも厭はじ。我れはかゝる果敢なき運を持ちてこの世に生れたるなれば、殿が憎くしみに逢ふべきほどの果敢なき運を持ちて、この世に生れたるなれば、ゆるし給へ、不貞の女子に計はせさせ給ふな、殿。
 卑賤にそだちたる我身なれば、始よりこの以上を見も知らで、世間は裏屋に限れる物と定め、我家のほかに天地のなしと思はゞ、はかなき思ひに胸も燃えじを、暫時がほども交りし社会は夢に天上に遊べると同じく、今さらに思ひやるも程とほし。身は桜町家に一年幾度の出替り、小間使といへば人らしけれど、御寵愛には犬猫も御膝をけがす物ぞかし。
 言はゞ我が良人をはづかしむるやうなれど、そもそも御暇を賜はりて家に帰りし時、聟と定まりしは職工にて工場がよひする人と聞きし時、勿躰なき比らべなれど、我れは殿の御地位を思ひ合せて、天女が羽衣を失ひたる心地もしたりき。
 よしやこの縁を厭ひたりとも、野末の草花は書院の花瓶にさゝれん物か。恩愛ふかき親に苦を増させて、我れは同じき地上に彷遑ん身の、取あやまちても天上は叶ひがたし。もし叶ひたりとも、そは邪道にて、正当の人の目よりはいかに汚らはしく浅ましき身とおとされぬべき。我れはさても、殿をば浮世に誹らせ参らせん事くち惜し。御覧ぜよ、奥方の御目には我れを憎しみ、殿をば嘲りの色の浮かび給ひしを」
 女子は太息に胸…

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