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作品ID41
著者芥川 竜之介
文字遣い新字新仮名
底本 「芥川龍之介全集4」 ちくま文庫、筑摩書房
1987(昭和62)年1月27日
初出「中央公論」1921(大正10)年9月
入力者j.utiyama
校正者もりみつじゅんじ
公開 / 更新1999-03-01 / 2014-09-17
長さの目安約 18 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

        一

 部屋の隅に据えた姿見には、西洋風に壁を塗った、しかも日本風の畳がある、――上海特有の旅館の二階が、一部分はっきり映っている。まずつきあたりに空色の壁、それから真新しい何畳かの畳、最後にこちらへ後を見せた、西洋髪の女が一人、――それが皆冷やかな光の中に、切ないほどはっきり映っている。女はそこにさっきから、縫物か何かしているらしい。
 もっとも後は向いたと云う条、地味な銘仙の羽織の肩には、崩れかかった前髪のはずれに、蒼白い横顔が少し見える。勿論肉の薄い耳に、ほんのり光が透いたのも見える。やや長めな揉み上げの毛が、かすかに耳の根をぼかしたのも見える。
 この姿見のある部屋には、隣室の赤児の啼き声のほかに、何一つ沈黙を破るものはない。未に降り止まない雨の音さえ、ここでは一層その沈黙に、単調な気もちを添えるだけである。
「あなた。」
 そう云う何分かが過ぎ去った後、女は仕事を続けながら、突然、しかし覚束なさそうに、こう誰かへ声をかけた。
 誰か、――部屋の中には女のほかにも、丹前を羽織った男が一人、ずっと離れた畳の上に、英字新聞をひろげたまま、長々と腹這いになっている。が、その声が聞えないのか、男は手近の灰皿へ、巻煙草の灰を落したきり、新聞から眼さえ挙げようとしない。
「あなた。」
 女はもう一度声をかけた。その癖女自身の眼もじっと針の上に止まっている。「何だい。」
 男は幾分うるさそうに、丸々と肥った、口髭の短い、活動家らしい頭を擡げた。
「この部屋ね、――この部屋は変えちゃいけなくって?」
「部屋を変える? だってここへはやっと昨夜、引っ越して来たばかりじゃないか?」
 男の顔はけげんそうだった。
「引っ越して来たばかりでも。――前の部屋ならば明いているでしょう?」
 男はかれこれ二週間ばかり、彼等が窮屈な思いをして来た、日当りの悪い三階の部屋が一瞬間眼の前に見えるような気がした。――塗りの剥げた窓側の壁には、色の変った畳の上に更紗の窓掛けが垂れ下っている。その窓にはいつ水をやったか、花の乏しい天竺葵が、薄い埃をかぶっている。おまけに窓の外を見ると、始終ごみごみした横町に、麦藁帽をかぶった支那の車夫が、所在なさそうにうろついている。………
「だがお前はあの部屋にいるのは、嫌だ嫌だと云っていたじゃないか?」
「ええ。それでもここへ来て見たら、急にまたこの部屋が嫌になったんですもの。」
 女は針の手をやめると、もの憂そうに顔を挙げて見せた。眉の迫った、眼の切れの長い、感じの鋭そうな顔だちである。が、眼のまわりの暈を見ても、何か苦労を堪えている事は、多少想像が出来ないでもない。そう云えば病的な気がするくらい、米噛みにも静脈が浮き出している。
「ね、好いでしょう。……いけなくて?」
「しかし前の部屋よりは、広くもあるし居心も好いし、不足を云う理由は…

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