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病院の窓
びょういんのまど
作品ID4101
著者石川 啄木
文字遣い旧字旧仮名
底本 「石川啄木作品集 第二巻」 昭和出版社
1970(昭和45)年11月20日
入力者Nana ohbe
校正者松永正敏
公開 / 更新2003-04-12 / 2014-09-17
長さの目安約 68 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 野村良吉は平日より少し早目に外交から歸つた。二月の中旬過の、珍らしく寒さの緩んだ日で、街々の雪がザクザク融けかかつて來たから、指先に穴のあいた足袋が氣持惡く濡れて居た。事務室に入つて、受付の廣田に聞くと、同じ外勤の上島も長野も未だ歸つて來ないと云ふ。時計は一時十六分を示して居た。
 暫時其處の煖爐にあたつて、濡れた足袋を赤くなつて燃えて居る煖爐に自暴に擦り附けると、シュッシュッと厭な音がして、變な臭氣が鼻を撲つ。苦い顏をして階段を上つて、懷手をした儘耳を欹てて見たが、森閑として居る。右の手を出して、垢着いた毛糸の首卷と毛羅紗の鳥打帽を打釘に懸けて、其手で扉を開けて急がしく編輯局を見[#挿絵]した。一月程前に來た竹山と云ふ編輯主任は、種々の新聞を取散らかした中で頻りに何か書いて居る。主筆は例の如く少し曲つた廣い背を此方に向けて、煖爐の傍の窓際で新着の雜誌らしいものを讀んで居る。「何も話して居なかつたナ。」と思ふと、野村は少し安堵した。今朝出社した時、此二人が何か密々話合つて居て、自分が入ると急に止めた。――それが少からず渠の心を惱ませて居たのだ。役所[#挿絵]りをして、此間やつた臨時種痘の成績調やら辭令やらを寫して居ながらも、四六時中それが氣になつて、「何の話だらう? 俺の事だ、屹度俺の事に違ひない。」などと許り考へて居た。
 ホッと安堵すると妙な笑が顏に浮んだ。一足入つて、扉を閉めて、
『今日は餘程道が融けましたねす。』
と、國訛りのザラザラした聲で云つて、心持頭を下げると、竹山は
『早かつたですナ。』
『ハア、今日は何も珍らしい材料がありませんでした。』
と云ひ乍ら、野村は煖爐の側にあつた椅子を引ずつて來て腰を下した。古新聞を取つて性急に机の塵を拂つたが、硯箱の蓋をとると、誰が使つたのか墨が磨れて居る。「誰だらう?」と思ふと、何だか譯もなしに不愉快に感じられた。立つて行つて、片隅の本箱の上に積んだ原稿紙を五六十枚掴んで來て、懷から手帳を出して手早く頁を繰つて見たが、これぞと氣乘りのする材料も無かつたので、「不漁だ。不漁だ。」と呟いて机の上に放り出した。頭がまたクサクサし出す樣な氣がする。兩の袂を探つたが煙草が一本も殘つて居ない。野村は顏を曇らせて、磨れて居る墨を更に磨り出した。
 編集局は左程廣くもないが、西と南に二つ宛の窓、新築した許りの社なので、室の中が氣持よく明るい。五尺に七尺程の粗末な椴松の大机が据ゑてある南の窓には、午後一時過の日射が硝子の塵を白く染めて、机の上には東京やら札幌小樽やらの新聞が幾枚も幾枚も擴げたなりに散らかつて居て、恰度野村の前にある赤インキの大きな汚染が、新らしい机だけに、胸が苛々する程血腥い厭な色に見える。主筆は別に一脚の塗机を西の左の窓際に据ゑて居た。
 此新聞は昔貧小な週刊であつた頃から、釧路の町と共に發達して來た長い歴…

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