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二筋の血
ふたすじのち
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「石川啄木作品集 第二巻」 昭和出版社
1970(昭和45)年11月20日
初出生前未発表、1908(明治41)年6月稿。
入力者Nana ohbe
校正者松永正敏
公開 / 更新2003-04-07 / 2016-04-26
長さの目安約 25 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 夢の樣な幼少の時の追憶、喜びも悲みも罪のない事許り、それからそれと朧氣に續いて、今になつては、皆、仄かな哀感の霞を隔てゝ麗かな子供芝居でも見る樣に懷かしいのであるが、其中で、十五六年後の今日でも猶、鮮やかに私の目に殘つてゐる事が二つある。
 何方が先で、何方が後だつたのか、明瞭とは思出し難い。が私は六歳で村の小學校に上つて、二年生から三年生に進む大試驗に、私の半生に唯一度の落第をした。其落第の時に藤野さんがゐたのだから、一つは慥か二度目の二年生の八歳の年、夏休み中の出來事と憶えてゐる。も一つも、暑い盛りの事であつたから、矢張其頃の事であつたらう。
 今では文部省令が嚴しくて、學齡前の子供を入學させる樣な事は全く無いのであるが、私の幼かつた頃は、片田舍の事でもあり、左程面倒な手續も要らなかつた樣である。でも數へ年で僅か六歳の、然も私の樣に[#挿絵]弱い者の入學るのは、餘り例のない事であつた。それは詰り、平生私の遊び仲間であつた一歳二歳年長の子供等が、五人も七人も一度に學校に上つて了つて、淋しくて/\耐らぬ所から、毎日の樣に好人物の父に強請つた爲なので、初めの間こそお前はまだ餘り小さいからと禁めてゐたが根が惡い事ぢや無し、父も内心には喜んだと見えて、到頭或日學校の高島先生に願つて呉れて、翌日からは私も、二枚折の紙石盤やら硯やら石筆やらを買つて貰つて、諸友と一緒に學校に行く事になつた。されば私の入學は、同じ級の者より一ヶ月も後の事であつた。父は珍らしい學問好で、用のない冬の晩などは、字が見えぬ程煤びきつて、表紙の襤褸になつた孝經やら十八史略の端本やらを持つて、茶話ながら高島先生に教はりに行く事などもあつたものだ。 
 其頃父は三十五六、田舍には稀な程晩婚であつた所爲でもあらうか、私には兄も姉も、妹もなく唯一粒種、剛い言葉一つも懸けるられずに育つた爲めか、背丈だけは普通であつたけれども、ひよろ/\と痩せ細つてゐて、隨分近所の子供等と一緒に、裸足で戸外の遊戯もやるにかゝはらず、怎したものか顏が蒼白く、駈競でも相撲でも私に敗ける者は一人も無かつた。隨つて、さうして遊んでゐながらも、時として密り一人で家に歸る事もあつたが、學校に上つてからも其性癖が變らず、樂書をしたり、木柵を潜り抜けたりして先生に叱られる事は人並であつたけれど、兎角卑屈で、寡言で黒板に書いた字を讀めなどと言はれると、直ぐ赤くなつて、俯いて、返事もせず石の如く堅くなつたものだ。自分から進んで學校に入れて貰つたに拘はらず、私は遂學科に興味を有てなかつた。加之時には晝休に家へ歸つた儘、人知れず裏の物置に隱れてゐて、午後の課業を休む事さへあつた。病身の母は、何時か私の頭を撫でながら、此兒も少し他の子供等と喧嘩でもして呉れる樣になれば可いと言つた事がある。私は何とも言はなかつたが、腹の中では、喧嘩すれば俺が敗ける…

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