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あせ
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本幻想文学集成10 岡本かの子」 国書刊行会
1992(平成4)年1月23日
初出「週間朝日」1933(昭和8)年5月
入力者門田裕志
校正者湯地光弘
公開 / 更新2004-07-16 / 2016-01-16
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 ――お金が汗をかいたわ。」
 河内屋の娘の浦子はさういつて松崎の前に掌を開いて見せた。ローマを取巻く丘のやうに程のよい高さで盛り上る肉付きのまん中に一円銀貨の片面が少し曇つて濡れてゐた。
 浦子はこどものときにひどい脳膜炎を患つたため白痴であつた。十九にもなるのに六つ七つの年ごろの智恵しかなかつた。しかし女の発達の力が頭へ向くのをやめて肉体一方にそゝいだためか生れつきの美人の素質は息を吹き込んだやうに表面に張り切つた。ぼたんの花にかんなの花の逞ましさを添へたやうな美しさであつた。河内屋の生人形、と近所のものが評判した。
 浦子は一人娘であつた。それやこれやで親たちは不憫を添へて可愛ゆがつた。白痴娘を持つ親の意地から婿は是非とも秀才をと十二分の条件を用意して八方を探した。河内屋は東京近郊のX町切つての資産家だつた。
 三人ほど官立大学出の青年が進んで婿の候補者に立つた。しかし彼等が見合ひかた/″\河内屋に滞在してゐるうちに彼等はことごとく匙を投げた。「紙!」「紙!」浦子は便所へ入つて戸を開けたまま未来の夫を呼んで落し紙を持つて来させるやうな白痴振りを平気でした。
 松崎は婿の候補者といふわけではなかつた。評判を聞きつけて面白半分娘見物に来たのだつた。松崎は鮎釣が好きだつたところからそれをかこつけに同業の伯父から紹介状を貰つて河内屋に泊り込んでゐた。X町のそばには鮎のゐる瀬川が流れて季節の間は相当賑つた。松崎は工科出の健康な青年で秋口から東北の鉱山へ勤める就職口も定まつてゐた。
 もはや婿養子の望みも絶つた親たちはせめて将来自分一人で用を足せるやうにと浦子に日常のやさしい生活事務をポツ/\教へ込むことに努力を向けかへてゐた。
 松崎の来るすこし前ごろから浦子は毎日母親から金を渡されて一人で町へ買物に行く稽古をさせられてゐた。
 庭には藤が咲き重つてゐた。築山を繞つて覗かれる花畑にはヂキタリスの細い頸の花が夢の焔のやうに冷たくいく筋もゆらめいてゐた。早出の蚊を食はうとぬるい水にもんどり打つ池の真鯉――なやましく[#挿絵]たけき六月の夕だ。
 松崎は小早く川から上つて縁側で道具の仕末をしてゐた。釣つて来た若鮎の噎るやうな匂ひが夕闇に沁みてゐた。そこへ浦子が
 ――お金が汗をかいたわ。」
 といつて帰つて来た。
 ――松崎さん。こんなお金でおしほせん買へて?」
 この疑ひのために浦子はそのまま塩煎餅屋の前から引返して来たのだ。
 松崎は眼を丸くして浦子の顔を見た。むつくり高い鼻。はかつたやうにゑくぼを左右へ彫り込んだ下膨れの頬。豊かに括つた朱の唇。そして蛾眉の下に黒い瞳がどこを見るともなく煙つてゐる。矢がすりの銘仙に文金の高島田。そこに一点の羞恥の影も無い。松崎は眼を落して娘の掌を見た。古典的で若々しいローマの丘のやうに盛上つた浦子の掌の肉の中に丸い銀貨の面はなかば…

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