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生産を目標とする科学
せいさんをもくひょうとするかがく
副題――再三「科学と技術」とについて――
――さいさん「かがくとぎじゅつ」とについて――
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「戸坂潤全集 第一巻」 勁草書房
1966(昭和41)年5月25日
初出「帝国大学新聞」1941(昭和16)年9月8日号
入力者矢野正人
校正者松永正敏
公開 / 更新2003-10-15 / 2014-09-18
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 科学(特に自然科学)と技術(第一に物的生産技術)との関係は、今日ではすでに陳腐な問題のように響く。少なくとも二つの間に密接な又直接な連絡のあることは万人の常識である。にも拘らず私には、ここにはまだ匿された疑問がひそんでいるように思われる。
 まず第一に、最近、科学的精神が提唱されること甚だ旺んであるが、勿論これは日本の現下生産技術の向上を促進する必要があるからのことだ。では一体何故科学的精神が生産技術を促進し得るのであるか。科学が技術に原則を提供するからであるか。併し技術において原則的であるものは必ずしも科学において原則的であるものと一つではない。「応用科学」とか「科学の応用」とかいう旧い言葉は今日でも無意味ではない。少なくともこの応用なるものは科学とは一つでない。従来、科学的精神の一つの型として、この応用を軽蔑するという精神もあったのである。
 この種の穿鑿にうるさくなった常識は、科学と技術とは要するに根本が一つか共通かであるのだから、と云うかも知れない。併し科学は(正にギリシア以来)認識を目的とするものと一般に考えられている。処が技術の目標は云う迄もなく実用的な生産である。仮に「科学する心」というものがあると仮定すれば、そういう心の心持ちは容易に「技術する心」(?)とは一つにならないに相違ない。根本が一つだとも共通だとも、簡単には云えないことになる。ここに伏在する疑問は、科学教育について実際的なイデーを決めようとでもすれば、忽ち暴露することだ。
 科学と技術との連関を分析する必要を最も手近かに感じて来たのは、一群の科学史家であった。彼等の問題の出し方を大雑把に云って了えば、科学の発達は科学自身に原因するか、それとも技術の方向にその原因が求められねばならぬか、というのであった。或いは、科学の発達があってその結果技術の発達が可能となるのか、それともその逆に、技術などの発達の結果科学も亦発達すると考えるべきか、というのであった。
 尤も、科学が自分自身の原因のようなもので発達するという考え方の側からすれば、要するに科学を考えるためには技術はつけたりの問題にすぎなくなる筈だから、右のような問題を提出しようとする側は、すでに、科学の発達は技術などの発達に俟つという方の解答を要求していたわけだ。処がそこにまた相変らずの疑問が潜んでいる。
 と云うのは、この解答を予想しながらかの設問を提起した側の科学史家が、最も誘惑を感じるのは、何となく科学を技術の手段のように見ようという態度である。科学の目的は認識であり、そして認識は実践と統一されているという。それは正にその通りでいい。しかしこの両者の統一なるものを十分根本的に分解するだけの論理機関が整備されていない処から、往々科学は実践の一手段のようにも考えられ。やがて科学は技術への手段であるという風に考えられて来易いのである…

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