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河霧
かわぎり
作品ID42200
著者国木田 独歩
文字遣い新字新仮名
底本 「武蔵野」 岩波文庫、岩波書店
1939(昭和14)年2月15日、1972(昭和47)年8月16日改版
初出「国民之友」1898(明治31)年8月
入力者土屋隆
校正者蒋龍
公開 / 更新2009-04-20 / 2014-09-21
長さの目安約 16 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 上田豊吉がその故郷を出たのは今よりおおよそ二十年ばかり前のことであった。
 その時かれは二十二歳であったが、郷党みな彼が前途の成功を卜してその門出を祝した。
『大いなる事業』ちょう言葉の宮の壮麗しき台を金色の霧の裡に描いて、かれはその古き城下を立ち出で、大阪京都をも見ないで直ちに東京へ乗り込んだ。
 故郷の朋友親籍兄弟、みなその安着の報を得て祝し、さらにかれが成功を語り合った。
 しかるに、ただ一人、『杉の杜のひげ』とあだ名せられて本名は並木善兵衛という老人のみが次のごとくに言った。
『豊吉が何をしでかすものぞ、五年十年のうちにはきっと蒼くなって帰って来るから見ていろ。』
『なぜ?』その席にいた豊吉の友が問うた。
 老人は例の雪のような髭髯をひねくりながらさみしそうに悲しそうに、意地のわるそうに笑ったばかりで何とも答えなかった。
 そこで少しばかりこの老人の事を話して置くが、「杉の杜のひげ」と言われてその名が通っているだけ、岩――のものでそのころこの奇体な老人を知らぬ者はないほどであった。
 髭髯が雪のように白いところからそのあだ名を得たとはいうものの小さなきたならしい老人で、そのころ七十いくつとかでもすこぶる強壮なこつこつした体格であった。
 この老人がその小さな丸い目を杉の杜の薄暗い陰でビカビカ輝らせて、黙って立っているのを見るとだれも薄気味の悪い老翁だと思う、それが老翁ばかりでなく「杉の杜」というのが、岩――の士族屋敷ではこの「ひげ」の生まれない前のもっと前からすでに気味の悪いところになっているので幾百年かたって今はその根方の周囲五抱えもある一本の杉が並木善兵衛の屋敷の隅に聳ッ立ッていてそこがさびしい四辻になっている。
 善兵衛は若い時分から口の悪い男で、少し変物で右左を間違えて言う仲間の一人であったが、年を取るとよけいに口が悪くなった。
『彼奴は遠からず死ぬわい』など人の身の上に不吉きわまる予言を試みて平気でいる、それがまた奇妙にあたる。むずかしく言えば一種霊活な批評眼を備えていた人、ありていに言えば天稟の直覚力が鋭利である上に、郷党が不思議がればいよいよ自分もよけいに人の気質、人の運命などに注意して見るようになり、それがおもしろくなり、自慢になり、ついに熟練になったのである。彼は決して卜者ではなかった。
 そこで豊吉はこの「ひげ」と別に交際もしないくせに「ひげ」は豊吉の上にあんな予言をした。
 そしてそれが二十年ぶりにあたった。あたったといえばそれだけであるが、それに三つの意味が含まれている。
『豊吉が何をしでかすものぞ、』これがその一、
『五年十年のうちには、』これがその二、
『きっと帰って来る、』これがその三。
 薄気味の悪い「ひげ」が黄鼠のような目を輝らせて杉の杜の陰からにらんだところを今少し詳しく言えば、
 豊吉は善人である、また才もある…

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