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病中記
びょうちゅうき
作品ID42223
著者寺田 寅彦
文字遣い新字新仮名
底本 「寺田寅彦全集 第三巻」 岩波書店
1997(平成9)年2月5日
初出1920(大正9)年1月
入力者Nana ohbe
校正者noriko saito
公開 / 更新2004-09-12 / 2014-09-18
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 大正八年十二月五日 晴 金曜
 二、三日前から風心持であったが、前日は午前に気象と物理の講義があったから出勤した。午過ぎから帰るつもりでいたが案外気分がいいし天気もいいから白木屋の俳画展覧会を見に行ったらもうすんでいた。それから丸善へ行って二冊ばかり教室へ届けさせるようにした。胃の工合があまりよくなかったが気分がいいので乗合自動車で銀座へ行った、そして例のように風月へはいってコーヒーを呑んだ。胃がよくないと思って一杯でよしたのであった。五日の朝は風邪もよくなったようだし胃もいいような気がした。しかし朝は授業がないからゆっくりして日のよく当った居間の障子の内で炬燵にあたりながら何かしていた。十時半頃に学校へ行ったら「数物」の校正が来ていたからすぐに訂正して木下君の部屋へ持って行った。自分の室へ帰って先日国民美術協会でやった講演「雲の話」の筆記を校正していた。一、二頁見ているうちに急に全身が熱くなって来た。蒸風呂にでもはいったようで室内の空気がたまらなく圧しつけるように思われた。すぐに立って左側の窓をあけたが風を引きかえしてはいけないと思ってすぐにまた締め切った。上衣を脱いで右側の机の上に投げ出し机の前に帰ったが同時に名状の出来ない胸苦しさを覚えた。横臥したいと思ったが寝る所がないから机の上に突伏して右に左に頭をもたせてみたが胸苦しさは増すばかりで全身は汗ばんで来た。室の向うの隅に毛布があるのを思い出して席を立ってそれを取りに行った。毛布に手をかけた瞬間に眼界が急に真暗になってからだが左右にゆらぐを覚えた。何とも知らずしまったという気がした。次の瞬間には自分の席の背後の扉の前に倒れていた。どうしてここまで来たかは全く覚えていない。何とも云えぬ苦悶が全身を圧え付けて冷たい汗が額から流れた。その苦しみを少しでも軽くする唯一の方法として大きな唸き声を出しつづけた。二、三日前靴を修繕にやったので古いゴツゴツの靴をはいていたがそれが邪魔で堪らない。足を悶える度にそれがコツコツ戸棚や扉に当る堅い冷たい不愉快な感覚が非常に誇張されて苦しみを助けた。室の入口の壁に立っているスチームヒーターの上に当る白壁が黒く煤けているのが特に目立って不愉快であった。妙な事にはこの汚い床の上に打倒れてうめいている自分とは別にまた自分があって倒れている自分を冷やかに傍観しているような気がした事であった。
 助手の浅利君は部屋に居なかった、出勤している事は帽子掛の帽子と外套でわかっているが朝から顔を見なかった。平日でも自分の室の前はめったに人の通らないところである。呼鈴を押しに立つ事は到底出来ないから浅利君が帰るまで待っている外にはどうする事も出来ないのであった。ガランとした室の天井を見るのが心細かった。ふるえる手で当もなく手掛りのない扉の面を撫で廻しながら動物のような唸り声をつづけていた。何分く…

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