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釈迢空に与ふ
しゃくちょうくうにあたふ
作品ID42237
著者斎藤 茂吉
文字遣い旧字旧仮名
底本 「齋藤茂吉全集 第十四卷」 岩波書店
1952(昭和27)年7月10日
初出「アララギ」1918(大正7)年5月
入力者高柳典子
校正者多羅尾伴内
公開 / 更新2004-03-13 / 2014-09-18
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 君が歌百首を發表すると聞いたとき僕は嬉しいと思つた。いよいよ「アララギ」三月號が到來して君の歌を讀んでみて僕は少し殘念である。遠く離れて、君に面と向つて言へないから今夜この手紙を書かうと思つた。
 つまり心の持方が少し浮いてゐないか。目が素どほりして行つて居ないか。歌ひたい材料があり餘るほどあつても、棄て去るのが順當だと思はれるのが大分おほい。苦勞して創めた『連作』の意義がだんだん濁つて來ると、あぶないと思つてゐる。
『萬葉調』は僕等同志の歩いて來た道であつて、又歩くべき道である。君の今度の歌は、なんだか細々しく痩せて、少ししやがれた小女のこゑを聞くやうである。僕はもつと圖太いこゑがいいやうに思ふ。おほどかで、ほがらかな、君のいつぞやの歌のやうなのがいいと思ふ。「アララギ」調は流行したけれども、もとを云へば『擬古』と稱してみんなが默殺してゐたのは君も知つてゐる。そんなことにはかまはんで、忍苦して來たのは君も僕もそれから同志の面々である。ところが近ごろまた『萬葉迷執』などの形容詞を僕らの態度に冠らせて呉れる人も出て來てゐる。僕らは實のところまだまだ萬葉に執していいのである。君のこんどの歌は古語は使つてあつても、萬葉調でないのが大分あると僕は思ふ。古語は使はんでも萬葉調であるがいい、それと反對である。
 君はいつか『口語的發想』のことを云つたが、あれが一部分濁つて今度の歌に出て居る。リズムと謂つても『阿房陀羅リズム』に近きこと、新しき俳句と似てゐるやうであつて、短歌の形式に合はない。短歌では矢張り『遒勁流動リズム』であるのが本來で、それが『萬葉調』なのである。僕が『形式』のことをいふと、外的、因習と他の人がいふと思ふが、短歌の體に處るのが本來で、短歌として優れて居ればそれが本望であらねばならぬ。これは諦念説どころではなくて、實は精進の到達點であると思つてゐる。短歌が阿房陀羅ぶしに化して何になる。
 結句に四三調のものがなかなかある。それがどうも輕薄にひびく。僕は井上通泰さんのやうに、結句は三四調であるべきだなどとは云はんが、今度の歌の結句の四三調には肯んじがたいのがある。われ等の祖先の作に、『雲たちわたる』とか、『打ちてしやまむ』とか、『のどには死なじ』などの遒勁流轉の結句があるのに、君の歌のはなぜさう行かないのであらうか。
 クールベのエトルダの斷岩のやうな、海波圖のやうな、ロダンの考へる人のやうな、レムブラントの自畫像のやうな、ああいふところに目を据ゑたこともあるが、力及ばずに了つてしまつて、今おもふと恥かしい事がある。それゆゑ僕はこれを同志に望んでゐる。同志に望むのは一番自然だと思ふからである。君はさう思はないか。
 僕は今二軒長屋のせまいところに住んでゐて、夜になると、來訪者のないときははやく床をのべてその中にもぐつて芭蕉や、「高瀬舟」などを讀んでゐる…

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