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人間の本性
にんげんのほんしょう
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「片上伸全集 第2巻」 日本図書センター
1997(平成9)年3月25日
入力者高柳典子
校正者岩澤秀紀
公開 / 更新2012-08-24 / 2014-09-16
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 田山花袋氏はセンティメンタリズムを説明して、センティメンタリズムといふのは、斯うありたい、あゝありたいと思ふ願ひを誇張して、理想的な心持から空想的な状態になつて行くものだ。と云つて居る。花袋氏の其の言葉の意味は、即ち、對象の實際持つて居ないものを、持つて居て貰ひたいと思ひ、又、持つて居るやうに感ずるのがセンティメンタリズムであると云ふ意味でもあるやうだ。
 そして花袋氏は此のセンティメンタリズムの分子を、ドストイェフスキイが澤山持つて居ると云つて居る。[#「居る。」は底本では「居る」]言葉が簡單なので、其の意味ははつきり分らないが、之れを同氏のセンティメンタリズムの解釋に依つて推測して見ると、即ちドストイェフスキイは、實際人間生活の内容に含まれて居ないものを、含まれて居ると思つて觀て居るとか、又た含まれて居れば好いと云ふ風に思つて空想して居ると云ふ意味だと思はれる。ドストイェフスキイの作品には非常に純粹な人道的の精神が強く含まれて居ると普通に言はれて居るから、花袋氏はその點からドストイェフスキイをセンティメンタルだと斷じたものであらう。即ち人間の實際はドストイェフスキイの考へて居るやうな、そんなものではない。ドストイェフスキイは勝手に人生を想像して書いて居ると云ふ風な意味かと思はれる。若しさう云ふ意味であるとすれば、人間の本性に對する花袋氏の解釋が、何う云ふ解釋かと云ふことが問題になる。花袋氏が云つて居るやうな斷片的な獨斷的な言ひ方だけでは批評することも出來ないけれども、平常花袋氏は、人間の心は恐ろしい、どんなことでも思ひ得ないことはないし、又成し得ないことはないと、能く言はれる。が、さう云ふ心持からドストイェフスキイの現はして居る人生が、非常に甘いお目出度い人生だと云ふ意味ならば、花袋氏のドストイェフスキイに對する考へ方は全く當つて居ない。と云ふよりも一層適切に言へば、人間の本性に對する解釋を誤つたものと言はねばならぬ。人間の心は恐ろしいものである、何處まで行くか分らないものであると云ふことは、必ずしも暗い方面にばかり當て篏まる事ではない。それは、人間の心と云ふものはどんな恐ろしい暗黒面へも限りなく深く入つて行くものであると同時に、ドストイェフスキイが描いた人間のやうに、どんなに苦しめられ、苛められ、虐げられても、人間自然の最も純粹な心を失はないで、素直な、何所までも自由に伸びて行く心持を傷付けられないと云ふ、さう云ふ方面の人間の本性にも限りはないものである。苦しめられゝば苦しめられる程、苛められゝば苛められる程、此の尊い本質は益々輝かしい光りを放つて、人間と云ふものが果して何の點まで堪へ忍ぶ力を持つて居るものか、殆んど定限はないのである。ドストイェフスキイの描いた人生は、さう云ふ方面の限りなく深い人生を現して居るのである。それをセンティメンタリズム、若…

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