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初冬の日記から
しょとうのにっきから
作品ID42263
著者寺田 寅彦
文字遣い新字新仮名
底本 「寺田寅彦全集 第四巻」 岩波書店
1997(平成9)年3月5日
初出「中央公論」1934(昭和9)年1月
入力者Nana ohbe
校正者砂場清隆
公開 / 更新2006-04-21 / 2014-09-18
長さの目安約 20 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 一年に二度ずつ自分の関係している某研究所の研究成績発表講演会といったようなものが開かれる。これが近年の自分の単調な生活の途上に横たわるちょっとした小山の峠のようなものになっている。学生時代には学期試験とか学年試験とかいうものがやはりそうした峠になっていたが、学校を出ればもうそうしたものはないかと思うと、それどころか、もっともっとけわしい山坂が不規則に意想外に行手に現われて来た。これは誰でも同じく経験することであろう。しかしずっと年を取った後に、再びこうした規則正しく繰返される「試験」の峠を越そうとは予期しなかったが、そのおかげで若い日の学生時代の幻影のようなものを呼び返し、そうしてもう一度若返ったような錯覚を起こさせる機縁に際会するのである。
 それはとにかく、学生時代に試験が無事にすんだあとの数日間はいつでも特別に空の色が青く日光が澄み切って輝き草木の色彩が飽和して見えた、それと同じように、研究所の講演会のすんだあとの数日は東京市の地と空とが妙にいつもより美しく見えるようである。ことに今年は実際に小春の好晴がつづき、その上にこの界隈の銀杏の黄葉が丁度その最大限度の輝きをもって輝く時期に際会したために、その銀杏の黄金色に対比された青空の色が一層美しく見えたのかもしれない。
 そういうある日の快晴無風の午後の青空の影響を受けたものか、近頃かつて経験したことのないほど自由な解放された心持になって、あてもなく日本橋の附近をぶらぶら歩いているうちに、ふと昨日人から聞いた明治座の喜劇の話を想い出してちょっと行って覗いてみる気になった。まだ少し時間は早かったが日本橋通りをぶらぶらするのも劇場の中をぶらぶらするのも大した相違はないと思って浜町行のバスを待受けた。何台目かに来た浜町行に乗込んだら幸いに車内は三、四人くらいしか乗客はなくてこの頃のこの辺のバスには珍しくのんびりしていた。腰をかけて向い側を見ると二十歳くらいの娘がいる。どこかで見たような顔である。
 KFという女優らしい。それはこれから見に行こうとしている明治座の喜劇に出演する筈のその当人であるらしい。舞台顔は数回、但しいつもだいぶ遠方の二等席からではあるが、見たことがあり、演芸の雑誌などでしばしば写真を見たことがある。しかし、それにしても乗っているのが青バスであるのに、服装がどうも自分の想像している名代女優というものの服装とはぴったり符合しない。多分銘仙というのであろう。とにかくそこいらを歩いている普通十人並の娘達と同じような着物に、やはりありふれたようなショールを肩へかけて、髪は断髪を後ろへ引きつかねている。しかし白粉気のない顔の表情はどこかそこらの高等女学校生徒などと比べては年の割にふけて見えるのである。ほぼ同年頃の吾等の子供等と比べると眉宇の間にどことなしに浮世の波の反映らしいものがある。膝の上にはどう…

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