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「青眉抄」について
「せいびしょう」について
作品ID4229
著者宮本 百合子
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十八巻」 新日本出版社
1981(昭和56)年5月30日
初出「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房、1953(昭和28)年1月
入力者柴田卓治
校正者磐余彦
公開 / 更新2004-05-17 / 2014-09-18
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 この秋(昭和十八年)文展と殆ど同時に関西美術展というのが開催された。
 病気からすっかり丈夫にならないので、明治大正美術展も見られなかったし、このときも行かれず、残念に思った。新聞に代表的な作品の写真がのったなかに、上村松園の作品があり、その新鮮さ、たっぷりさに目のなかが涼しくなるようないい印象をうけた。夏の日に張りものをしている妻の絵で、はり板の横に腰をおとしてしゃがんでいる女の体のたっぷりしたすこやかな肉置き、手に入った仕事に働いているときの女の闊達な表情、単純で美しい服装、いずれも非常に美しかった。やっぱり美人画らしく白い顔や腕でも、それは些も繊弱でなく貴族的でなく、丈夫なまめな快活な笑声、愛嬌ある心の照りが、こまやかな肌のきめに匂っているという風なこのもしさであった。はりきった厚さと暖さとがある美しさであった。
 六十何歳かに達した年で、このように精気のある絵をかく女性の粘りというものに、感服し、よろこびを感じたのであった。実物を見られなくて惜しいという気が切にした。

 護国寺の紅葉や銀杏の黄色い葉が飽和した秋の末の色を湛えるようになった。或日、交叉点よりの本屋によった。丁度、仕入れして来たばかりの主人が、しきりに、いろんな本を帳場に坐っている粋なおかみさんにしまわせている。
「こんなのもいい本だが、何しろこう少なくちゃ仕様がない」
 主人は、本やというよりもむしろ呉服屋の年功経た番頭というような云いかたで、新刊本の棚の前に、一冊の本を半分投げてよこした。十八年度最終の出版整備が公表されて程なくのことである。
 今日の本やの気分というものを犇と感じつつ見ると「青眉抄」上村松園とある。
「おや、珍しい本だこと」
「さすがに装幀もようござんすね」
そう云ったきり一冊しか出さないのである。
 純綿ものでも出されたような工合で、その一冊を買った。

 日本画家の芸術家としての内部生活の限界とでもいうようなものにふれて、様々の読後感に打たれた。
 一かどの芸術家は、男女によらずだれしも或る強情さ、一途さ、意志のつよさ、人生への負けじ魂をもっている。それは人間的な素地として、其々の専門部門への特別な天稟とともに備えている。其々の時代の制約と闘うということも共通である。苦心するのも共通である。
「ロダンの言葉」という二巻の本がある。これが、ロダンの芸術を益々ふかく理解させるばかりか、後進のものに彫刻のみならず、芸術というものの本質をわからせるに役立ち、文学や音楽の仕事にたずさわるものをも魅する珠玉に輝いているのは何故だろう。ロダンはそこで、自分の苦心努力ぶりを語ってはいない。美について、その発見と表現とその技法について語っている。別の言葉で云えば、自己の偉大さの秘密を、すっかり打ち開いている。その真率さにおいて益々彼は偉大であり、到達しがたい価値を感じさせるの…

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