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小さな旅
ちいさなたび
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「決定版富田木歩全集」 世界文庫
1964(昭和39年)12月30日
初出「俳句世界」1918(大正7)年6月号
入力者土倉明彦
校正者小林繁雄
公開 / 更新2006-08-21 / 2014-09-18
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 五月六日
 今宵は向嶋の姉に招かれて泊りがてら遊びに行くのである。
 おさえ切れぬ嬉しさにそゝられて、日毎見馴れている玻璃窓外の躑躅でさえ、此の記念すべき日の喜びを句に纒めよと暗示するかのように見える。
 母は良さんを連れて来た、良さんと云うのは此の旅を果させて呉れる――私にとっては汽車汽船よりも大切な車夫である。
 俥は曳き出された。足でつッぱることの出来ぬ身体は揺られるがまゝに動く。
 私の俥は充分に外景を貪り得るように[#「貪り得るように」は底本では「貧り得るように」]、能うだけの徐行を続けているのだが、矢張り車夫として洗練されている良さんの足は後へ後へと行人を置きざりにして行くのである。
 やがて見覚えのある交番の前を過ぎた。道は既に紅燈紘歌の巷に近づいたのである。煙草屋の角や駄菓子屋の軒などに、江戸家とか松葉とか云うような粋な軒燈が点いている。それは煙草屋や、駄菓子屋の屋号ではなくて、それらの家々の路地奥にある待合や芸妓家の門標であることに気のついた頃はそうした軒燈を幾つとなく見て過ぎた。
 旨そうな油の香を四辺に漂わしながらジウジウと音をさせている天ぷら屋の店頭に立っている[#「立っている」は底本では「立つている」]半玉のすんなりした姿はこの上もなく明るいものに見られた。
 この町のこうした情調に酔いつゝある間に俥は姉の家へ這入るべき路地口へついた。蝶のように袂をひらめかしながら飛んで来た小娘が「随分待ってたのよ」と云う、それは妹であった。
 家に入ると、姉は私を待ちあぐんで、既に独酌の盃を重ねているのだった。私も早速盃を受けて何杯かを傾けた。
 俳句などには何の理解も持たぬ姉ながら妹に命じて椽の障子を開けさせたり、窓を開かせたりして私を喜ばしてくれるのは身にしみて嬉しかった。
 三坪ほどしかない庭の僅か許りの立木ではあるが、昨年来た時の親しみを再び味わしてくれるのに充分である。昨日植木屋を入れて植えさせたと云う薪のような松が五六本隅の方に押し並んで居るのも何となく心を惹く。手水桶を吊り下げてある軒端の八ツ手は去年来た時よりも伸び太って、そのつやつやしい葉表には美しい灯影が流れている。
 五勺ほどの酒でいゝ気持になった。

墓地越しに町の灯見ゆる遠蛙
行く春の蚊にほろ醉ひのさめにけり

 こうした句作境涯に心ゆくばかり浸り得さしてくれた姉に感謝せざるを得ない。恰も如石が来たので妹などゝ椽先に語り合った。
 五月七日

鶉來鳴く障子のもとの目覚めかな

 妹は学友に起されて登校した。胃を病んでいる姉は昨夜の酒が過ぎたので痛むと云う。私は一人で朝餉をすませて、陽の一杯に漲っている若葉蔭に陣取って新聞を読む。

杉の芽に蝶つきかねてめぐりけり
新聞に鳥影さす庭若葉かな

 服薬して身を横たえている姉は句作に耽っている私の方を見乍ら時々思い出したように…

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