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寿阿弥の手紙
じゅあみのてがみ
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「筑摩全集類聚森鴎外全集第四巻」 筑摩書房
1971(昭和46)年11月5日
入力者篠森
校正者小林繁雄
公開 / 更新2005-03-01 / 2014-09-18
長さの目安約 83 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



 わたくしは澀江抽齋の事蹟を書いた時、抽齋の父定所の友で、抽齋に劇神仙の號を讓つた壽阿彌陀佛の事に言ひ及んだ。そして壽阿彌が文章を善くした證據として其手紙を引用した。
 壽阿彌の手紙は[#挿絵]堂と云ふ人に宛てたものであつた。わたくしは初め[#挿絵]堂の何人たるかを知らぬので、二三の友人に問ひ合せたが明答を得なかつた。そこで[#挿絵]堂は誰かわからぬと書いた。
 さうすると早速其人は駿河の桑原[#挿絵]堂であらうと云つて、友人賀古鶴所さんの許に報じてくれた人がある。それは二宮孤松さんである。二宮氏は五山堂詩話の中の詩を記憶してゐたのである。
 わたくしは書庫から五山堂詩話を出して見た。五山は其詩話の正篇に於て、一たび[#挿絵]堂を説いて詩二首を擧げ、再び説いて、又四首を擧げ、後補遺に於て、三たび説いて一首を擧げてゐる。詩の采録を經たるもの通計七首である。そして最初にかう云ふ人物評が下してある。「公圭書法嫻雅、兼善音律、其人温厚謙恪、一望而知爲君子」と云ふのである。公圭は[#挿絵]堂の字である。
 次で置鹽棠園さんの手紙が來て、わたくしは[#挿絵]堂の事を一層精しく知ることが出來た。
 桑原[#挿絵]堂、名は正瑞、字は公圭、通稱は古作である。天明四年に生れ、天保八年六月十八日に歿した。桑原氏は駿河國島田驛の素封家で、徳川幕府時代には東海道十三驛の取締を命ぜられ、兼て引替御用を勤めてゐた。引替御用とは爲換方を謂ふのである。桑原氏が後に産を傾けたのは此引換のためださうである。
 菊池五山は[#挿絵]堂の詩と書と音律とを稱してゐる。[#挿絵]堂は詩を以て梁川星巖、柏木如亭及五山と交つた。書は子昂を宗とし江戸の佐野東洲の教を受けたらしい。又畫をも學んで、崋山門下の福田半香、その他勾田臺嶺、高久隆古等と交つた。
 [#挿絵]堂の妻は置鹽蘆庵の二女ためで、石川依平の門に入つて和歌を學んだ。蘆庵は棠園さんの五世の祖である。
 [#挿絵]堂の子は長を霜崖と云ふ。名は正旭である。書を善くした。次を桂叢と云ふ。名は正望である。畫を善くした。桂叢の墓誌銘は齋藤拙堂が撰んだ。
 桑原氏の今の主人は喜代平さんと稱して[#挿絵]堂の玄孫に當つてゐる。戸籍は島田町にあつて、町の北半里許の傳心寺に住んでゐる。傳心寺は桑原氏が獨力を以て建立した禪寺で、寺祿をも有してゐる。桑原氏累代の菩提所である。
 以上の事實は棠園さんの手書中より抄出したものである。棠園さんは置鹽氏、名は維裕、字は季餘、通稱は藤四郎である。居る所を聽雲樓と云ふ。川田甕江の門人で、明治三十三年に靜岡縣周智郡長から伊勢神宮の神官に轉じた。今は山田市岩淵町に住んでゐる。わたくしの舊知内田魯庵さんは棠園さんの妻の姪夫ださうである。
 わたくしは壽阿彌の手紙に由つて棠園さんと相識になつたのを喜んだ。



 壽阿彌の手紙の宛名…

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