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豊島与志雄著『高尾ざんげ』解説
とよしまよしおちょ『たかおざんげ』かいせつ
作品ID42355
著者太宰 治
文字遣い新字新仮名
底本 「もの思う葦」 新潮文庫、新潮社
1980(昭和55)年9月25日
入力者蒋龍
校正者今井忠夫
公開 / 更新2004-07-12 / 2014-09-18
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私は先夜、眠られず、また、何の本も読みたくなくて、ある雑誌に載っていたヴァレリイの写真だけを一時間も、眺めていた。なんという悲しい顔をしているひとだろう、切株、接穂、淘汰、手入れ、その株を切って、また接穂、淘汰、手入れ、しかも、それは、サロンへの奉仕でしか無い。教養とは所詮、そんなものか。このような教養人の悲しさを、私に感じさせる人は、日本では、(私が逢った人のうちでは)豊島先生以外のお方は無かった。豊島先生は、いつも会場の薄暗い隅にいて、そうして微笑していらっしゃる。しかし、先生にとって、善人と言われるほど大いなる苦痛は無いのではないかと思われる。そこで、深夜の酔歩がはじまる。水甕のお家をあこがれる。教養人は、弱くてだらしがない、と言われている。ひとから招待されても、それを断ることが、できない種属のように思われている。教養人は、スプーンで、林檎を割る。それにはなにも意味がないのだ。比喩でもないのだ。ある武士的な文豪は、台所の庖丁でスパリと林檎を割って、そうして、得意のようである。はなはだしきは、鉈でもって林檎を一刀両断、これを見よ、亀井などという仁は感涙にむせぶ。
 どだい、教養というものを知らないのだ。象徴と、比喩と、ごちゃまぜにしているのである。比喩というものは、こうこうこうだから似ているじゃねえか、そっくりじゃねえか、笑わせやがる、そうして大笑い。それだけのものなのである。しかし、象徴というものはスプーンで林檎を割る。なんの意味もない。まったくなんの意味もないのだ。空が青い。なんの意味もない。雲が流れる。なんの意味もない。それだけなのである。それに意味づける教師たちは、比喩だけを知っていて、象徴を知らない。そうして、生徒たちが、その教師の教えを信奉し、比喩だけを知っていて、象徴を知らない。ほんとうの教養人というものは、自然に、象徴というものを体得しているようである。馬鹿な議論をしない。二階の窓から、そとを通るひとをぼんやり見ている。そうして、私たちのように、その人物にしつこい興味など持たない。彼は、ただ見ている。猫が、だるそうにやってくる。それを阿呆みたいに抱きかかえる。一言にしていえば、アニュイ。
 音楽家で言えば、ショパンでもあろうか。日本の浪花節みたいな、また、講釈師みたいな、勇壮活溌な作家たちには、まるで理解ができないのではあるまいか。おそらく、豊島先生は、いちども、そんな勇壮活溌な、喧嘩みたいなことを、なさったことはないのではあるまいか。いつも、負けてばかり、そうして、苦笑してばかりいらっしゃるのではあるまいか。まるで教養人の弱みであり、欠点でもあるように思われる。
 しかし、この頃、教養人は、強くならなければならない、と私は思うようになった。いわゆる車夫馬丁にたいしても、「馬鹿野郎」と、言えるくらいに、私はなりたいと思っている。できるか…

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