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群集
ぐんしゅう
作品ID42403
著者豊島 与志雄
文字遣い新字新仮名
底本 「豊島与志雄著作集 第一巻(小説Ⅰ)」 未来社
1967(昭和42)年6月20日
初出「中央公論」1919(大正8)年5月
入力者tatsuki
校正者松永正敏
公開 / 更新2008-10-10 / 2014-09-21
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 大正七年八月十六日夜――
 私は神保町から須田町の方へ歩いて行った。両側の商店はもう殆んど凡てが戸を締めていた。大きな硝子戸や硝子窓の前には蓆を垂らしてる家が多かった、間には板を縦横に打ちつけてる家もあった。街路が妙に薄暗かった。黙々とした人影が皆須田町の方へ流れていた。「今夜は須田町から小川町をぬけて神保町の方へ来るそうだ、」と誰が云ったとも分らない言葉が私の耳に響いた。電車がぬるい速力で走っていた。
 然し街路は静まり返っていた。一向「来そう」に思えなかった。
 須田町の四辻には黒山のような群集が屯していた。僅かに電車の通れるだけの空地を残して、黙った人影が街路に溢れていた。その上、電車の数も非常に少なかった。
 広瀬中佐の銅像を弧の頂点とした曲線で劃して、万世橋停車場の前には、広い空地が開けられていた。停車場の前には四十人許りの武装した兵士が並んでいた。皆陰鬱な顔をして、身動きもせず言葉をも発しなかった。それは軍隊の規律上当然ではあるが、この場合如何にも陰惨に見えた。空地を劃する曲線の所に、巡査が四、五人歩き廻っていて、寄って来ようとする群集を逐払っていた。それでも時々停車場を出入する者が、足早に空地を通りぬけていた。大胆に平気で歩を運ぶ者はこの場合善良な市民となるのであった。
 私は平気でゆっくりと(多少故意に)その広場の中に歩み入った。誰も何とも云わなかった。兵士等の方へ一瞥を与えて、私は停車場の中にはいった。四、五人の乗客が居るきりでがらんとしていた。片隅には兵卒の背嚢や水筒などが地面にじかに並べてあった、規則正しく並べてあった。駅長室の前まで来ると、その扉に中隊長室と書いた紙片が貼りつけてあった。半ば開いた扉の隙から覗き込むと、長い口髯のある将校が椅子に腰をかけて、卓子の上に拡げた紙面をしきりに見ていた。平然たる横顔をしていた。
 私は停車場からまた出て来た。出る時兵士等の方をじろりと見た。それから広場を横ぎって銅像の影まで来た時、も一度ふり返って兵士等の方を見た。彼等は顔の筋肉一つ動かさなかった。何を見てるのか視線をも動かさなかった。或はまた何も見てないのかも知れなかった。そのくせ、右の方の一隊は「休め」の姿勢で立って居り、左の方の一隊は銃を組んでその後に屈んでいた。そのままの姿で皆じっとしていた。
 銅像の影に立っていると、巡査がやって来て、「此処に立っちゃいかん。」と云った。それで私は電車道を越えて、向う側の角の群集の中にはいり込んだ。
 日本橋の方へ行く須田町の通りには、身動きも出来ないほど市民が一杯になっていた。皆何かを期待し何かを見ようとしていた、そして黙っていた。
 万世橋のガードの方から、一隊の巡査に逐われた群集がどつと流れ込んで来た。それと共に、二人の兵士が馬を駆けさして乗り込んで来た。電車道の中を逃げ迷っている市民の中に、…

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