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童貞
どうてい
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「豊島与志雄著作集 第二巻(小説Ⅱ)」 未来社
1965(昭和40)年12月15日
初出「中央公論」1925(大正14)年4月
入力者tatsuki
校正者小林繁雄、門田裕志
公開 / 更新2007-12-23 / 2014-09-21
長さの目安約 13 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 ぼんやりしていた心地を、ふいに、見覚えのある町角から呼び醒されて、慌てて乗合自動車から飛び降りた。それから機械的に家の方へ急いだ。
 胸の中が……身体中が、変にむず痒くって、息がつけなかった。頬辺から鼻のあたりに、こな白粉の香がこびりついていて、掌で……それからハンケチで、いくら拭いても取れなかった。拭けば拭くほど、ぷーんと匂ってきた。
 嬉しいようで、なさけないようで、ほーっと息を吐くと、その息の根が震えた。
 晴れてるのか曇ってるのか、底知れぬ茫とした空だった。……が、宵闇に浮び出てる軒燈の灯が、きらきらと、珍らしくて美しかった。
 よその家へでも迷い込むような気持で、静に自家の玄関へはいった。誰も出迎える者がない……よかった、と思うとたんに、女中が立ってくる気配がした。それが却ってきっかけとなって、つかつかと茶の間へはいっていった。
「まあー、朝から出たっきり、どこへ行っていました。」
「井上君のところで遅くなって……。」
「そう、御飯は。」
「済みました。」
「やはり井上さんのお宅で……。それならいいけれど、こんどからは、御飯はどうするかちゃんと云っておかなければ困りますよ。あなたのために随分待ちましたよ。」
 それっきりだった。……母は何にも感づいてはいないんだな。
 だが……天井からぶら下ってる電燈、茶箪笥や長火鉢、父の読み捨ての夕刊、それを丹念に読んでる母……昔からその通りで、そしてこれからも永遠に……。畜生、何もかも……。
「お母さん、」
「え。」
 夕刊から振向いた母の眼が、嘗て見識らぬ愚鈍な者の眼付だった。
「僕は今日、素敵なものを見たんです。自動車と荷車と衝突して……。」
「そして。」
「正面からぶつかったんです。すると……荷車を引いた男の眼玉が、ぽんぽんと二つ共とび出しちゃって……。」
「え、何ですって。」
「夕刊に出てませんか。」
「夕刊にですか。」
 その隙に、煙草を一本袂から探って、すぱすぱやってみたが、気のせいか、頬辺にやはり白粉の香がくっついていて、どうにも困った。
 向うの室から、放笑しそうなのをじっとこらえた顔付で――眼付で、お千代が見ていた。そのぽっちりした赤い頬辺に、飛んでいってかじりついてやったら……母の眼の前で。
 母の頸筋が、生え際が、薄ら寒そうに細そりとしていた。
 何だかぎくりとした。その拍子に、トトントントン、トトントントン……指先で火鉢の縁をやけに叩いてやった。
 なぜ皆黙ってるんだ。
「ダンスでも習いたいな……。」
 トトントントン、トトントントン……。
「まあー、どうしたんですよ、口の中でぶつぶつ云って、そして……。」
 トトントントン……。顔が一寸挙げられなかった。
「僕は……ダンスを習いたいんだけれど……。」
 擦り寄ってきて、肩のあたりと腿のあたりとの厚ぼったい重みで、焦れったそうにトントン…

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