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或る素描
あるそびょう
作品ID42437
著者豊島 与志雄
文字遣い新字新仮名
底本 「豊島与志雄著作集 第二巻(小説Ⅱ)」 未来社
1965(昭和40)年12月15日
初出「新潮」1925(大正14)年7月
入力者tatsuki
校正者小林繁雄、門田裕志
公開 / 更新2007-12-26 / 2014-09-21
長さの目安約 24 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 長谷部といえば、私達の間には有名な男だった。
 或る時、昼食後の休憩の間に、一時までという約束で同僚を誘って、会社と同じビルディングの中にある、撞球場に出かけた。そしていつまでも撞棒を離さなかった。同僚は一時になると先へ引上げてきたが、彼は三時を打って暫くしてから、呑気そうに煙草を吹かしながら戻ってきた。月末のことで、会社の事務は繁忙を極めていた。彼は専務から呼びつけられて、ひどく叱責された。後で給仕から聞いたところによると、彼はその時、如何にも神妙にかしこまって黙って首を垂れたまま、後悔の念と良心の苛責とを深く感じてるもののようだったので、専務も遂に苦笑しながら彼を許してやったそうである。
 ところが、その日会社の帰りに、球を撞いた同僚と電車停留場まで歩きながら、彼はこんなことを云った。
「うむ、叱られはしたがね、僕は弁解なんか少しもしなかった。あべこべに向うをやっつけてやったよ。だって君、責任を知らないかって僕に向って云うんだろう。癪に障ったから、責任は立派に知っていますと答えてやった。一時から三時半まで会社の仕事をなまけたとしますと、その二時間半だけ、私は余分に事務を取っていっても宜しいんです、それでもなお事務が残ってるようでしたら、夜中まで居残ってもいいんですし、ビルディングが閉るなら、泊っていってもかまいません……とそんなことを云うと、専務は全く困ったような風をしていたよ。そこで僕はなお進んで、執務時間の改革案なるものを持ち出してやった。一定の時間だけ出勤すれば、それで仕事の能率が上ると思うのは間違いだ。社員はいつでも自分の好きな時に事務を執るようにして、嫌な時には何でも他のことをして遊ぶ、随って、早朝から夜中までの間に勝手な時幾時間勤むればよいと、そういう風になれば最も理想的だ、相互の事務の連絡は書面やなんかでつけることが出来るだろう……とね。」
「そんなことを云って、なおひどく小言をくやしなかったか。」
「いや……実は口に出して云ったわけじゃない。あの専務には物が分らないから、僕は黙っていてやったが、もし物の分る専務だったら、そして僕がそんな風に話をしたら、さぞ面白いだろうと、想像のうちで楽しんだのさ。叱られたお影で一寸面白い夢をみることが出来たのだ。」
「なあんだ、つまらない。」
 同僚に一笑されて、長谷部はそれが腑に落ちない顔付をした。
 そのことがやがて、退屈な会社の中では、噂話の一つとなった。
 然し、考えてみると、もし会社の執務時間を長谷部が云う通りにしたら、それを最もよく利用するのは、恐らく利用しすぎて自分でも困るのは、長谷部自身だったろう。
 次のような話がある。
 それは彼が或る学校に勤めてる時のことだった。彼は会社を止して、ひどく食うに困って、先輩の世話で学校教師になったのだった。会社員は彼の柄でなかった……が、教師もまた彼…

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