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傷痕の背景
きずあとのはいけい
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「豊島与志雄著作集 第三巻(小説Ⅲ)」 未来社
1966(昭和41)年8月10日
初出「中央公論」1929(昭和4)年9月
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2008-03-14 / 2014-09-21
長さの目安約 39 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

     一

 比較的大きな顔の輪郭、額のぶあつい肉附、眼瞼の薄いぎょろりとした眼玉、頑丈な鼻、重みのある下唇、そして、いつも櫛のはのよく通った髪、小さな口髭……云わば、剛直といった感じのするその容貌の中で、斜に分けられてる薄い頭髪が微笑み、短く刈りこまれてる口髭が社交的に動くのである。むろん、肩幅が広く、背が高い。前陸軍少佐…………。
 陸軍少佐の職を弊履の如く捨てた、彼である。退職将校というよりも、落選代議士という感じの方が強い。
 酒に酔うと、右の膝をまくって見せる癖がある、膝頭より上、大腿部の外方に、長さ七八センチの、可なり深そうな傷痕がある。
 有吉の例の武勇談……そういった微笑で、親しい友人等は眼を見合った。
「天保銭」をねらわず、語学の勉強に力を入れ、外国語学校、大使館附武官、教育総監部、陸軍省……と、そういった方面を重にめぐってきて、実戦は勿論、実地兵科の方に縁の薄かった、そしてそれを一面得意とした有吉祐太郎のことだから、その「武勇談」といっても、ごくつまらないことだった。然し……。
「君たちだったら、美事に、横っ腹をぶすりとやられるところだ。それを……その時まで全く冗談だったが……冗談にせよ、はずみで……ぱっと払ったのが、腿にきた。彼奴案外真剣だったらしい……。」
 そして、そのぎょろりとした眼付に、心をこめて、遠く、上海にいる杉本浩の面影を、追い求めるのだった。
「不徳漢で……卑怯者で……。」
 だが、口で云うほど実は憎んではいなかった。何としても、憎悪の念なしに対抗意識が自然とその方へ向いてゆく、親しい対象だった――感情的にも、思想的にも。
 彼の交友仲間――彼が中立候補としてたった代議士にも落選後、ひそかに結束の機運が醸成されかかってる少数の一団――の中には、日本ファシズムの気分が多く支配していた。その原動力の一つは、彼が大腿部の傷痕にあることは事実だった。
「彼奴が、日本に舞い戻ってきたら……。」
 一種のなつかしみと力の自負とを以て、有吉祐太郎はそう思うのである。

     二

 杉本浩は粗末なアパートの一室に住んでいた。そして彼の生活は、飜訳と、雑文執筆と、読書と、漫歩と……。
 浅草、銀座、新宿、その表通りや裏通りの雑踏の中に、彼の茫漠たる風貌がよく見られた。
 いつも一人。古ぼけた帽子の下から、蓬髪の縮れが少し覗いている。肉の豊かな赤みの濃い頬に、そして円みのある[#挿絵]に、黒いこわ髯が、根強く、芽を出しかかっている。鼻が目立たず、口が小さく、強度の近眼鏡の下に、底深く眼が光っている……。その眼が、舗装道路の上に踊ってる衆人の足先を見る。そして彼は考えるのである。――人は次第に、ダンスや靴の影響よりも先んじて、踵より足先に力を入れて歩くようになった。これは生活が苛立ってる証拠だ。もし体重の百パーセントが足先にかかるよ…

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