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千代次の驚き
ちよじのおどろき
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「豊島与志雄著作集 第三巻(小説Ⅲ)」 未来社
1966(昭和41)年8月10日
初出「文学界」1934(昭和9)年1月
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2008-04-22 / 2014-09-21
長さの目安約 20 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 お父さん、御免なさい。あたし、死ぬつもりなんかちっともありませんでした。ただ、びっくりしたんです。ほんとに、心の底まで、びっくりしました。
 村尾さんが、まさか……。今になっても、まだ、腑におちません。随分前からのお馴染で、気質もよく分ってるつもりでしたのに……。少し変だと思ったのは、つい近頃のことで、それも、実は、あたしの方が変だったのかも知れません。お前さんこの頃どうかしてるね、とねえさんに云われたことがありました。あたしただ笑ってたけれど、自分でも、どうかしてるような気がしていました。でも、お父さんの教えは、ちっとも忘れたことはありません。芸者をしてる以上は、男に惚れてはいけない、たとえ旦那にも、岡惚と名のつく人にも、惚れてはいけない、とそうお父さんは、くれぐれも仰言ったでしょう。おかしなお父さんだと、はじめは思いましたが、だんだんたつうちに、真実のことを云って下さったんだと、分ってきました。こう云っちゃなんだけれど、お父さん、むかしは随分道楽なすったんでしょう。だから、お父さんの仰言ることは、通り一遍の理屈じゃなく、もとでのかかった、すっかり入れあげた、底まで見とおした、真実のことだと、あたしほんとうに感心しました。男という男は、みんな、うわべはいろいろだけれど、心底は同じものだと、あたしにも分ってきました。だからあたし、どんな人も、ほんとに好きにはならないと、そう決心していました。村尾さんだって、そうです。決して好きになったわけじゃありません。ただ少し、気懸りにはなっていましたが……。
 それも、近い頃のことです。あの方のお母さんが亡くなられて、百ヶ日もたってからだったでしょう、急に、しげしげいらっしゃるようになり、しまいには、いつづけなさることさえありました。
「僕はどうせ、病気で死にかかって、危く拾いものをした命だし、母親も見送って、気にかかる者もないし、これからの生涯をどんなにぞんざいに使おうとかまわない。実にさっぱりした気持だ。」
 そうかと思うと、また――
「ねえ、千代ちゃん、もしもの時には一緒に死んでくれないか。君と一緒なら、僕はいつでも死ぬ用意をしてるよ。」
 そんなのが、酒の上での他愛のない調子で、にこにこ笑っていらっしゃるんだから、ちっとも張合がありませんでした。けれど、その裏に、何だか気になるものがありました。何だろうかと、あたしさんざん考えたあげく、お金のことらしいと思いました。以前は、お金がほしいとか、僕はとても貧乏だとか、そんなことをしきりに云っていらしたのが、ぷっつりと、お金のことは口になさらないんです。それとなくさぐりをいれてみると、中江さんから少し用だてて貰ったとか、母の貯金が残っていたとか、ぼんやりした話でしたが、あたしには、まだそのほかに何かあるような気がしました。それに、何かにつけて、あたしと依田さんとの仲を…

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