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道化役
どうけやく
作品ID42460
著者豊島 与志雄
文字遣い新字新仮名
底本 「豊島与志雄著作集 第三巻(小説Ⅲ)」 未来社
1966(昭和41)年8月10日
初出「中央公論」1934(昭和9)年7月
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2008-06-05 / 2014-09-21
長さの目安約 43 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 村尾庄司が突然行方をくらましてから、一年ほどたって、島村陽一は意外なところで彼に出会った。島村は大川を上下する小さな客船が好きで、むかし一銭蒸汽と云われていた頃には、わざわざ散歩の途をその船の中まで延したこともあるし、近頃でも、たまに何かの機会があると、少し廻り道をしても乗ってみた。街路が舗装で固められ、建物が直角の肩を並べ、交通機関が速力を増してくる、その中にあって、商家のお上さんや番頭などをのせ、川波にゆられながらのろのろと走る小蒸汽は、都市の煉瓦や石やコンクリートの中に穿たれてる一種の通風孔みたいに思われるのだ。殊に夕方がよかった。太陽は建築物の肩に隠れて、その残照が明るく河面に漂い、油をぬったような空と水との反映を受けて、微妙な紫じみた雰囲気をかもし出し、両岸の家々は平面がぼやけ、輪廓だけがくっきりと際立ち、泊りを求めて帰る大きな荷足船の中からは、細そり煙が立っている。そういう時、船体全部に響くこの小蒸汽の機関の音は、何かしら小気味よい笑いのように聞えた。永代橋のたもとからこれに乗りこんだ島村は、久しぶりの楽しい気持で、暫く外に立って眺めていたが、二つばかりの橋の下をくぐると、いかめしい鉄骨の橋架に頭を押えられる気がして、船室の中にはいった。客がまばらで、ひっそりしていた。片隅の腰掛にかけて、うす汚れのした硝子窓から覗くと、船はすぐ河岸近くを進んでいたので、広い眺望を求めて反対側に席を移そうとした時、向うの、子供を膝に抱いてる女の先に、こちらを見ていたらしい顔をそむけて、水面に視線を落してる男の姿が、眼にとまった。黒いソフトをまぶかにかぶって、窓によりかかるようにしてるその横顔が、どう見ても村尾だった。島村は物にこだわらない呑気な性質から、一年間の年月も種々な事件もとびこして、その方へ歩み寄っていった。数歩のところで、村尾は彼を意識していたようにひょいと顔をあげて、彼の方を見た。彼はそれを笑顔で迎えた。
「やあ、暫くだね。」
 村尾は黙っていて、真向いに腰を下す島村の様子を、じっと見ていた。反感はないが、冷い眼付だった。古ぼけた紺の背広から、白い襯衣の襟をのぞかせて、毛襦子らしいネクタイを無雑作にむすんでるその様子が、以前よりも更に痩せている蒼白い顔にしっくり合って、若くなったようにも見える。そして黒のソフト帽だけだが、昔の通りだった。
「どうしたんだい、あれから……。」
 その時、村尾は曖昧な微笑を浮べて、島村の手をとって握りしめた。力のこもったその握手が、以前の村尾と異ったものを島村に伝えた。
「あなたに……逢いたいと思っていたんですが。」
 そして村尾はこんどは、何だか恥しそうな微笑をした。感情や言葉がどこか調子があっていないようだった……。
 ――ところで、これから先の二人の話を跡づける前に、以前の出来事を茲に物語るとしよう。そしてこの物語…

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