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父の形見
ちちのかたみ
作品ID42461
著者豊島 与志雄
文字遣い新字新仮名
底本 「豊島与志雄著作集 第三巻(小説Ⅲ)」 未来社
1966(昭和41)年8月10日
初出「行動」1934(昭和9)年10月
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2008-06-05 / 2014-09-21
長さの目安約 14 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 正夫よ、君はいま濃霧のなかにいる。眼をつぶってじっとしていると、古い漢詩の句が君の唇に浮んでくるだろう。幼い頃、父の口からじかに君が聞き覚えたものだ。
 その頃君の父は、土地の思惑売買に失敗し、更に家運挽回のための相場に失敗し、広い邸宅を去って、上野公園横の小さな借家に移り住んでいた。君の母はもう亡くなっていた。老婢が苦しい世帯をきりもりしてくれた。父は感情の調子で時々酒を飲んだ。陶然としてくると、君を連れて散歩に出た。公園下に、まだ電車が通っていない時分で、木のベンチが並んでいた。
「正夫、見てごらん、星が、きれいだろう。」
 そう云って、酔ってる父はベンチの上に仰向にねそべり、小さな君はその側に、足先を宙に腰掛け、或は地面に膝をついてよりかかり、星を眺め、池を眺め、父を眺め、しまいにはうとうとと眠りかけるのだった。蚊が多かった。君ははっと眼をあいて、首筋や脛をぼりぼりかいた。父も着物の袖で蚊を追いながら、君の方を顧りみて微笑した。それから中声で詩を吟じた。
霜満軍営秋気清……云々
鞭声粛粛夜過河……云々
蛾眉山月半輪秋……云々
月落烏啼霜満天……云々
高原弔古古墳前……云々
 そんな詩を父は好きだった。中学校の教科書の中でそれらの詩に出会った時、君は果してどんな感懐を覚えたか。
 父の吟咏の調子は、自己流の怪しげなものだった。然し、空には星が実にきれいに光っている。池には蓮の葉が青々と重畳して、点々として白い花が咲き匂っている。対岸の賑やかな料亭の灯が、遠く、港町のような旅情をそそる。それらのものの中に君の心は溺れながら、またうとうとと眠りかける。山の上の森の中から鐘の音が響いてきても、君はもう眼をさまさない。すると、父の大きな力強い掌が、君の頭にどしんとかぶさる。君はびっくりして、慴えたように飛び起き、父にすがりつく。父は威厳のある眼で母親のように微笑んでいた。蚊にさされたあとが急に痒くなるのだった。
 それらの夕の散歩は、落魄した父と孤独な君にとっては、一の慰安だったろう。父にとっては酒の酔と異る陶酔があり、君にとっては酒の酔に似た感傷があったろう。そしてその思い出は、君の身内に長く生きている。然し、そういう思い出こそ、投げ捨ててしまわなければいけないものなのだ。

 正夫よ、君の父はほんとに自殺の決心をしたことがあった。幾日も家にひきこもっていて、後頭部に鉛のかたまりでもはいってるかのような沈黙を守ってることがあったろう。ああいう時だ。然し父は自殺をしなかった。劇薬が手にはいらなかったからではない。薬剤の代りには、拳銃もあれば短刀もあった。或はそのための旅に出るだけの金も、工面すれば出来ない筈はなかった。然し父は死ななかった。何故か。自殺の決心を実行に移すだけの或る光ったものが不足していたからだ。
 あの頃、父はひどく酒を飲んだ。放蕩もした。経済…

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