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秋の気魄
あきのきはく
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」 未来社
1967(昭和42)年11月10日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2006-01-16 / 2014-09-18
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 秋と云えば、人は直ちに紅葉を連想する。然しながら、紅葉そのものは秋の本質とは可なりに縁遠いことを、私は思わずにはいられない。
 楓の赤色から銀杏の黄色に至るまでのさまざまな紅葉の色彩は、その色彩からじかに来る感じは、しみじみとした専念の秋の感じとは、よほど距っている。都会にいてはそうでもないけれど、一歩田舎に踏み出してみると、山裾の木立の紅葉や、田畑の熟しきった黄色い農作物や、赤々とさす日脚などは、それをそのまま抽出して観ずる時には、寧ろ残暑に属すべきもので、真の秋の領域ではない。試みに、吾々の住宅や居室を、それらの色彩の何れかで塗りつぶすとしたならば、吾々の生活気分は、可なりに落付のないものとなることであろう。そしてこの落付のなさは、秋の頼りない気分とは、全く別種のものである。
 紅葉に秋の気分を与うるものは、紅葉のうちの活力の欠如である。私は茲に、緑葉が何故に紅葉するかという、科学的の説明を持出したくはない。ただ紅葉に活力のないことだけを云いたい。かりに、野山の紅葉が、あのままの色彩で生々と生育する世界を想像してみれば、それが秋の世界だとは誰も云い得ないであろう。活力のない紅葉なればこそ、秋にふさわしいものとなる。秋の山野を冠する赤や黄の色彩は、房々とした少年の金髪ではなくて、生活をしつくした初老の人の赤毛である。
 生活力のない紅葉は、一夜の冷風に散ってゆく。そしてこの落葉こそ、本当の秋のものである。庭に散り落ちる桐の一葉から、林の中に舞い落ちる無数の木の葉、または半ば霜枯れた野の草葉に至るまで、悉く秋の気分に濃く塗られている。かさかさと鳴る落葉を踏んで林中の小径を辿る時、人は最も深く秋を感ずる。
 何処からともなく流れ来る微風に、常緑樹の病葉や落葉樹の紅葉は、何等の努力もなく如何にも自然に、梢から地上へと舞い落ちる。地のものは地へと大自然の声が囁く。而も地面へ落ちついた枯葉は、なお其処に安住し得ないで、何処ともなく風のまにまに吹き散らされる。その方向を辿って林から出れば、収穫後の広々とした田畑が、露わな肌を眼の届く限り展べていて、霜枯れの叢からは、実をつけた雑草の茎が、淋しげにすいすいと伸びている。そして人の心も、己自身の肌寒い淋しさに駆られて、遠い地平線のあたりへとさ迷い行く。その地平線の彼方には、淡い夢のような憧れの世界がある。
 秋は淋しい、というのは真実である。秋はあらゆるものの外皮を、不用なものも必要なものも、凡ての外皮を、自ら振い落さしめて、万物を裸のままでつっ立たせる。秋を淋しくないと云う者は、衣服を脱いで真裸でつっ立つ折の、妙に佗しい頼り無い淋しさを、鈍感のためにか或は厚顔無恥のためにか、身に感じないていの者であるに相違ない。
 かかる落葉の――剥脱の――世界に、更に特殊の気味を添えるものは、淡いながらに鋭い日の光である。やや南方に…

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