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作者の住む世界
さくしゃのすむせかい
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」 未来社
1967(昭和42)年11月10日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2006-01-28 / 2014-09-18
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 或る雑誌記者がこんなことを云った――「新進作家に少し書いて貰おうと思って、さて誰に頼んだらよいかと考えてみると、結局誰にしても同じだという気がして、考えるのも厄介になってくる。そう思うと、実に退屈でたまらない。」
 この退屈だということは、多くの人の実感であるらしい。
 なぜ退屈だかを、もっとよく考えてみると、大抵の作家がみな同じような世界に住んでるからだと思う。
 作者の住む世界というのは、作品に現われた材料が所在する、その外部の世界を指すのではない。材料はどんなものでもよい。その材料に対する、作者の感じ方見方腹の据え方など、そんなものをひっくるめた世界、即ち、作者の人としての知情意の内部世界を指すのである。
 同じ材料を取扱っても、出来上った作品が作者によって異って、全く別種の感銘を読者に与えるのは、作者の住む世界が異るからである。
 そして、新しい文芸は、新らしい世界に住む作者から生れてくる。
 明治末年から大正五六年までにかけて、日本の文壇が少しも退屈ではなく、いつも溌剌としていたのは、自然主義的世界に住む作家連の間に、それとは別な世界に住む作家達が頭をもたげてきたからであった。どの国の文壇をみても、文学の主流の変遷は、必ず新しい世界に住む作家連によって齎らされている。
 現在の日本の文壇が退屈でなくなり、新たな気運に進展してゆくのには、新しい世界に住む作家が出て来なければいけない。いくら新進作家が出て来ても、いくら既成作家が円熟していっても、彼等の住む世界が変らない限りは、もしくは彼等の住む世界が進展してゆかない限りは、文壇はいつも停滞退屈の感を失わない。
 近時批評家の文章などを読んでみると、既成作家と新進作家とが対抗して、既成作家は文壇の地位を確守しようと警戒し、新進作家は文壇を乗っ取ろうと努力してる、とそういった感じを与えられることがある。然しそれは事実にない嘘である。或る人々にはそういうことがあるかも知れないが、本当のいい作家には、既成と新進とを問わず、そうした意識は少しもないし、またあってもいけないのである。
 既成作家のよい者は、新進作家などを相手に物を考えてはしない。考えてることはただ、自分の住む世界の進展だけである。新進作家のよい者は、既成作家などを相手に物を考えてはしない。考えてることはただ、新しい世界を開拓しようということだけである。両者は互に取組んでるのではない。別々に別々なことを考えてるのである。それを互に取組んでるかのように云うのは、批評家の僻目である。
 既成作家と新進作家とを問わず、新しい世界を開拓してゆく者は、常に新らしく生きてゆく。そういう作家から、文壇に力強い光がさしてくる。そういう作家がいることによってのみ、文壇は沈滞腐敗しないで、常に健かに息づいてゆく。
 要は、如何に巧みに作品を書くかということではなくて…

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