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戯曲を書く私の心持
ぎきょくをかくわたしのこころもち
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」 未来社
1967(昭和42)年11月10日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2006-01-28 / 2014-09-18
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 四五年前から、戯曲を書いて見たまえって、周囲の友人に度び度びすすめられたことがあったんです。そして僕自身も戯曲を書いて見たい気持はしばしば起ったんですけれど、いざ書こうとなると内容のイメージが、どうしても小説的に、言いかえれば、平面的になって来て仕方がなかった。この小説的とか平面的とか云う意味は、小説に於ける地の文が必要がなくては表わせないと云った風なことです。なお詳しく云えば、頭の中のイメージを表現する場合に、会話と地の文と両方持ちよらなければ出来そうもないような気持なんです。そこで、会話と地の文とが一つになって、会話的な言葉だけで、表現出来る境地まで踏み込んで行きたいと考えて見た。そしてそれがどうにか出来そうに思えて来たから、ぼつぼつ戯曲を書き出したような訳です。

 そこで実際、戯曲を書いて見るとかなり愉快な気がします。でその愉快さはどこから来るかと云えば、一つは小説のように地の文がないと云うこと、勿論ト書があるけれどもあれはほんの人物の動作とか、言葉の調子とか特種な表情とか、そう云った僅かな注意書で、小説の地の文見たいに重要な役目をするものでなく従属的なものでしょう。ところが小説の地の文になると或場合には、会話よりむしろ重要となって来て、非常にたくさんのものがその中に盛られる。殊に僕の在来のような小説の傾向では幾等ひかえようと思っても、地の文に於て、非常に繊かく描写しがちであった。読者からも、君の小説はあんまり繊かくって面倒すぎる、と云われたこともあったんですが、書く方の僕自身は猶一層面倒くさかった。作中人物の心理や気持をこまかくほじくって書いて行くのがだんだん厭になって、出来るだけそう云う方面の筆をさしひかえたいと思い、なるべく簡潔な筆づかいの小説を書き始めたところへ、今度は地の文が全くない戯曲と云うものにぶっつかってかなり愉快だと思った。

 そこで、話はあとへ戻るんだが、小説に於ける地の文と会話とを一緒くたにした、戯曲的会話だけで表わす場合には、その表現が仮りに、小説を絵画的表現だとすれば、これは彫刻的表現のような感じがする。実際書いてる場合に小説だと、地の文と云うある意味では重宝な、或る意味ではわずらわしいものがあるために、作者としての視野がひろくって、そのためにどうも平面的になりがちのような気がする。出来上った上では、勿論小説としても立体的になればなるほど勝ぐれたものである訳なんだけれど、直接原稿用紙に向っている時の作者の眼は、随分ひろい範囲内に拡がっていなければならない。そして要は、ただ文字にすべきものとすべからざるものと、選択の如何にある。ところが脚本では、始めからのイメージが、人物それ自身の具象的な姿で表わされているし、それが舞台と云うものの中に限定されているから、作者としての眼の働きが、比較的狭い範囲内に限られ、従って、その場合そ…

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