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「自然」
「しぜん」
作品ID42507
著者豊島 与志雄
文字遣い新字新仮名
底本 「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」 未来社
1967(昭和42)年11月10日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2006-05-22 / 2014-09-18
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私の家の東側は、低い崖地になっている。崖下の地先まで六七間、二三の段階をなしてる傾斜である。数本の落葉樹が新緑の枝葉を交差し、小鳥の往来繁く、地面には落葉積り、雑草生い茂り、昆虫類が戯れている。かくてこの崖地、僅かの坪数ながら、自然の風趣に富む。
 庭先に椎の古木がある。この常緑樹は、他の落葉樹と異って、晩春初夏の頃、盛んに古葉を散らし、余剰の花を降らせる。風の日には、朝夕、狭い庭のあちこちに、落葉の渦が巻く。それを掃き集めて崖地に撒布するのが、家人の日常雑用の一つとまでなっている。
 不思議なのは、物の感じである。庭先にあって目触りとなる落葉は、自然のまま放置されてる崖地に撒かれると、おのずからその所を得て落付き、却って人目を慰める。落葉ばかりでなく、枯枝や藁屑までも、この崖地はその「自然」のなかに、抱擁し同化する。
 その崖地に、私は家居の日幾度か、おのずから誘い込まれる。落葉、枯枝、藁屑、雑草、昆虫、小鳥、青葉、遠く家並を越えてくる微風、点々とした日の光……。
 然るに、時々、ふと、私は不快な打撃を受けて、眉をひそめる。足許に、小さな紙片、糸屑が、落ちているのだ。物の散らかるに任せ植物の生い茂るに任せられたこの崖地の中で、一片の紙片や糸屑が、如何に醜く人目につくことか! 人工の匂いがし、人間の息吹がかかってるものは、如何に零細なものでも、ここでは凡て醜悪となる。
 私はそこに立ったまま、遙に、山野林泉のことを想う……。山野林泉に於ては、枯草も枯葉も、石ころも土くれも、みな自然の風情の一つとなる。鳥獣の糞でさえも、一つの風趣となる。然し、凡て人間的なものは、不調和な醜悪となるのである。野の中や泉のほとりに、弁当の折箱、新聞紙の一片、人の手にむかれた蜜柑の皮……などを見出した時は如何。人里遠い山道で、馬糞に、更に人糞に、出逢った時は如何。茲にも人ありとなつかしむ気持は、種々のものを含む不純な感情の作用であって、直接の印象は、眉をひそめさせるだけである。
 何故に、鳥獣の糞は自然を飾り、人間の使役動物たる牛馬の糞は自然と相容れず、人間の糞は自然を汚すのか。それほど、人間の生活は自然と対立するものなのか。或は、人間は個立的で同類反撥的なものなのか。或は、人間の自然に対する憧憬渇仰の念が深いのか。
 私は半人半獣のことを思う。ミノトール、サントール、スフィンクス、人魚、フォーヌ、サチール……。半人半獣の獣性から神性のことまでを想う。
 足許の紙片や糸屑は、益々不快な印象を私の眼に送る。私は崖地から足を返す。そして、人間の息吹のかかったものは凡て拾い出すように頼んでいるにも拘らず、それを不注意にも落葉と共に崖地に撒いた家人の無神経さに対して、私が苛立つのは、苛立つ方がいけないのであろうか。
 さはあれ、落葉の上を一人で歩くのは淋しく、二人で歩くのは楽しく、大勢で…

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