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自由主義私見
じゆうしゅぎしけん
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」 未来社
1967(昭和42)年11月10日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2006-06-09 / 2014-09-18
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 自由主義は、行動方針の問題ではなくて、生活態度の問題である。実践的動向の向うにある目的ではなくて、生活それ自体の翹望である。翹望である以上、固より、対象として「自由」を持つものではあるが、かかる「自由」は、本来、生活それ自身と合体しているものであり、謂わば、生活が本能的に持っている一面である。随って、かかる「自由」は、それのみでは、或る特定の社会構図を画くものではない。
 この「自由」は、必然に、各人のそして同時に万人の自由を意味する。各人の周囲に或る境界線を引いて、その範囲内に於ける限りの自由ではなくて、各人の自由の中に自己の自由の延長を見る自由であり、平等に於ける連帯的自由である。それは性質上、吾々が本能的に有する正義感に似ている。法律的な或は習慣道徳的な正義感ではなく、本能的な原存的な正義感は、各人に分配された正義をではなく、各人のそして同時に万人の正義を意味する。
 由来、「各人のそして万人の」という言葉は、その観念を、至上命題化して、宙に浮遊させがちである。然し上述の「自由」は、それが吾々の生活の本能的一面である以上、上述の正義感と同様、常に実際生活に即した問題となる。そしてこの「自由」を主張する自由主義なるものが、社会進展の実践的動向に対して指導理論を提出しないにも拘らず、常に多くの人々に関心を持たせる所以は、そこにある。
 近日創立されるらしい「学芸自由同盟」なるものが、同盟としての今後の行動に対する明確な見通しがつかないにも拘らず、社会各方面の人々を包括し得る可能性がある所以も、またそこにあるのではないかと、私は考える。この意味で、自由主義者とマルクシストと肩を並べることを非難する人々に対しては、もう一歩手前の考察を希望したい。
 も一歩手前の考察をなす場合、今になって「学芸自由同盟」などの創立が何故に必要であるかとの反問が、当然起ることであろう。そこで、何故に必要であるかよりも何故に創立の議が起ったかを考える時、吾々の生活から、それが本能的に持っている自由なるものが次第に引離されてきた情勢が、先ず眼に映る。
 自由というものは、生活と一体を為すべきものであって、生活から引離された観念的な自由というものは、理論の遊戯である。自由という化物が嘗て存在したことがあるかという人々こそ、却って自由というものを観念的に考えているのではないかと思われる。
 自由というものが、生活から引離されて観念的にしか存在しなくなる時、云いかえれば、自由の一面が生活から切取られる時、生活は不具になる。この生活の不具の苦痛を、自由主義は最も強く感ずる。それは、観念的な自由が、政治的に或は経済的に如何に各人に分与されるかの問題ではなく、生活それ自体が自由の面を如何ほど保有してるかの問題である。自由主義のあらゆる運動の強弱は、生活の自由の面の広狭に正比例する。
「学芸自由…

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