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新時代の「童話」
しんじだいの「どうわ」
作品ID42557
著者豊島 与志雄
文字遣い新字新仮名
底本 「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」 未来社
1967(昭和42)年11月10日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2006-06-21 / 2014-09-18
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 それを二十世紀的と云おうと、現代と云おうと、或は新時代と云おうと、言葉はどうでもよろしいが、過去と現在との間に一種の距離を感じ、歴史の必然的なるべき推移のうちに一種の飛躍を感ずる、そういう時代に吾々は在る。
 後方を振向いて眺めると、驚くほど遠望がきく。そしてこの遠望、普通のものではない。そこには距離の混乱がある。遠い「昔」のものも、すぐ彼方にまざまざと見えるのがあるし、近い「昨日」のものも、遙かに遠く霞んでいるのがある。つまり、全過去の遺産が一塊となってそこに控えているのだ。かかる遠望は、現在にとって、伝統の中絶を意味する。どこに中絶があるかは問わないとして、現在が過去全部に対立しているのである。この広い遠望のなかから、何を取ってこようと、それは吾々の自由だ。だがこの自由さは、謂わば無軌道の自由さに等しい。
 然るに、前方を透し見ると、これは遠望のきかないこと甚しい。遠い地平線どころか、「明日」のことさえも見透しがつかない。現在辿ってる道はあるにはある。然しいつ如何なる断崖に出逢うか分らないのだ。それから先は、自分で道を切り拓いて進むより外はない。自分で自分の道を切り拓く覚悟が、常に必要なのである。これは、先覚者とか先駆者とかについて言うのではない。見透しがつかないことは、あらゆる変動の可能を意味するのである。
 かかる境地に、近代のハムレットを置いてみるがいい。――「近代の」という形容を冠した所以は、それがもう過去のものとなりつつあるからである。たしかに、一時、ハムレット的なものが存在した。彼はあらゆる信念や確信を喪失している。そして何よりもひどいのは、欲望に対する熱情の喪失である。或る意図を懐いても、その意図が実現されない前から、実現後の不安や不満を予感する。だから意図を貫徹する熱意を欠き、意図そのものも蕾のうちに萎んでしまう。「喉はかわいているが、渇は常にいやされている。」とスーポーは言っている。つまり、行動の結果に対する不信から、行動そのものが拒否される。必要なのは、行動そのものでなくて、行動についての熱情なのである。これは、自己の豊富さについての自覚から来るところの、行動は限定であり、一つのものを選択することは他の無数のものを捨てることであるという思想、初期のジィドなどの思想とも、関連を持っている。斯くて、何か一つの欲望が欲望されるという歎声になる。
 このハムレットを、上述の境に置いてみるがいい。彼は後方を振向いて眺め、また前方を凝視し、そして其処にいつまでも佇んでいるだろう。その表情はどうであろうか。後方を眺める時は、皮肉な微笑を浮べ、前方を凝視する時は、憂欝な微笑を浮べるだろう。そして皮肉な微笑と憂欝な微笑とのうちに、足は水腫に重くなり、体駆は栄養不良に痩せ細ってくるだろう。
 だが、ハムレットのほかに、現代のドン・キホーテがいる。――「…

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