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北京・青島・村落
ペキン・チンタオ・そんらく
作品ID42568
著者豊島 与志雄
文字遣い新字新仮名
底本 「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」 未来社
1967(昭和42)年11月10日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2006-06-27 / 2014-09-18
長さの目安約 12 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 大平野の中で、吾々は或る錯覚を持つことが多い。丘陵とか、森とか、工場の煤煙とかが、視線を遮ることなく、遙かに地平線まで見渡せる場合、つまり、視線に対する抵抗物が平野の上に何もない場合には、その地平線の彼方に海があるような錯覚を起すのである。これは、四方海にかこまれた陸地に、そして常に視線に対する抵抗物の多い陸地に住む者の、常態であろう。
 河北大平野には、処々に村落があり、木立がある。然しその間を縫って、地平線の彼方へまで展望が開けている。四方八方にそうである。謂わば、地平線の彼方へまで通じる風窓が、大地の上に八方に開けていて、そこには視線に対する抵抗物が何一つない。
 この大地の一点に立つと、吾々には、地平線の彼方に四方に海があるような錯覚が起る。そしてこの錯覚はひいて、海上に在るような感覚を持たせる。地球が円いものだとの実感を得るのは、海の沖合に在る時ばかりではなく、このような大平野に在る時もそうである。
 そしてこの平野には、至って河が少い。河流は始終泥土を運んできて、いつしか水が涸れれば、河床は高く、橋の必要はなく、道路はじかに河床を通っている。雨期に大雨があれば、水は地面を掘って自由な通路を作り、やがて平野の上に氾濫する。些少の低地や温地帯[#「温地帯」はママ]には、長く停滞して湖水の面影をなす。
 こうした河北平野に散在してる村落は、人の住宅というよりも、人の窖とか巣とかいう観がある。少しまとまった村落には、土塀をめぐらしてあるが、それは流賊を防ぐためもあろうし、洪水を防ぐためは更に多かろう。泥と煉瓦とで出来てる家は、入口が狭く、窓は漸く外光を取入れるだけのものである。幾重にも壁があり戸口があって、先ず、日本の普通の住宅の板塀や垣根や袖垣や壁などを、全部土塀にしたものと思えばよろしい。そして藁屋根の上には草が生え、瓦屋根の上には埃がたまり、村落が擁する僅かな木立も、一杯埃をあびている。風のある紅塵の日には、凡てのものが息をひそめる。それらの村落を、例えば汽車の窓などから眺むれば、塵埃をかぶって地面の中にもぐってるかのようである。
 そうした窖の中に、広漠たる平野を蔽いつくす耕作力がひそんでおり、一輪車で物を逓送する汽車以上の運輸力がひそんでおり、豚が仔を産み、鶏が孵化し、穀物の袋や酒の甕が蓄えられ、時とすると壁に貨幣が塗りこめられ、人の子が次々に生れてゆく。
 村落のこのイメージは、大地から生れ出る無尽の大衆というものにまで発展する。それは塵埃をかぶって地面の中にもぐってるようだが、強靭旺盛な生活力を内に包蔵している。
 然しながら、生活力自体はそのままでは精神力とはならない。生活力の当面の要求は安居楽業であり、精神的には他から指導されるままに導かれる。北支の治安工作は先ずこの水準に於てなされてる現状であろう。各地の匪賊討伐は、軍事上の問題より…

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