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ジャン・クリストフ
ジャン・クリストフ
作品ID42592
副題05 第三巻 青年
05 だいさんかん せいねん
著者ロラン ロマン
翻訳者豊島 与志雄
文字遣い新字新仮名
底本 「ジャン・クリストフ(一)」 岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年6月16日
初出JEAN CHRISTOPHE
入力者tatsuki
校正者伊藤時也
公開 / 更新2008-03-07 / 2014-09-21
長さの目安約 280 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     一 オイレル家


 家は沈黙のうちに沈んでいた。父の死去以来すべてが死んでるかと思われた。メルキオルの騒々しい声が消えてしまった今では、朝から晩まで聞こえるものはただ、河の退屈な囁きばかりであった。
 クリストフは執拗に仕事のうちに没頭していた。幸福になろうとしたことをみずから罰しながら、黙然として憤っていた。哀悼の言葉にもやさしい言葉にも返辞をしないで、傲然と構え込んでいた。日々の業務に専心し、冷やかな注意で稽古を授けた。彼の不幸を知ってる女弟子たちは、彼の平然さに気を悪くした。けれども苦しみを多少経験したことのある年上の人たちは、そういう外見上の冷淡さが、少年においてはいかなる苦悶を隠してることがあるかを、よく知っていた。そして彼を憐れんだ。しかし彼は彼らの同情をありがたいとも思わなかった。また音楽さえも、彼になんらの慰謝をも与えなかった。別に喜びの情をも感じないで、義務のようにして音楽をひいていた。あたかも彼は、もはや何事にも興味をもたないことに、もしくはそう思い込むことに、生存の理由をすべて失うことに、それでもなお生存することに、ある残忍な喜びを見出してるかのようだった。
 二人の弟は、喪中の家の沈黙に慴えて、急に外へ逃げ出してしまった。ロドルフはテオドル伯父の商館にはいって、伯父の家に住んだ。エルンストの方は、二、三の職についてみた後、マインツとケルンとの間を往復してるライン河の船に乗り込んで、金のほしい時ばかりしか顔を見せなかった。それでクリストフは母と二人きりで、広すぎる家に残ることになった。そして収入の道もわずかだったし、父の死後にわかった若干の負債をも払わなければならなかったので、つらくはあったがついに決心して、もっと質素な安い住居を捜そうとした。
 二人は小さな住居を見出した――市場通りのある家の三階で、二、三の室があった。そのあたりは騒々しく、町のまん中になっていて、河や樹木や、あらゆる親しい場所から、だいぶ隔っていた。しかし感情よりも理性に従わなければならなかった。そしてクリストフは、苦しみたいという悲痛な欲求を満たすのにいい機会を得た。そのうえ、家主のオイレル老書記は、祖父の友人で、クリストフ一家の者を知っていた。ルイザは、がらんとした家の中にしょんぼりしていて、自分の愛した人々のことを覚えていてくれる者をたまらなく懐しがっていたので、右の一事ですぐそこに住もうと心をきめた。
 二人は引越しの仕度をした。永久に去ろうとする悲しいまた懐しい家庭で過す最後の日々の苦い憂愁を、彼らはしみじみと味わった。心の悲しみを言いかわすこともほとんどできかねた。それを口に出すことが、恥ずかしかったしまた恐ろしかった。どちらも、心弱さを見せてはいけないと考えていた。雨戸を半ば閉めた侘しい室で、ただ二人で食卓につきながら、高い声をするのも憚り…

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