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散歩
さんぽ
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「水野仙子 四篇」 エディトリアルデザイン研究所
2000(平成12)年11月30日
初出「中央文学 二巻九号」1914(大正3)年9月発行
入力者林幸雄
校正者多羅尾伴内
公開 / 更新2004-05-01 / 2014-09-18
長さの目安約 12 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

「おい、散歩に行かないか。」と、縁側に立つて小さく口笛を吹いてゐた夫は言つた。
 薄暗い台所でしてゐた水の音や皿の音は一寸の間やんで、「えゝ」と、勇みたつたやうな返事が聞えると、また前よりは忙しく水の音がしだした。
 暗い夜であつた。少しばかり強く風が渡ると、光りの薄い星が瞬きをして、黒いそこらの樹影が、次ぎから次ぎへと素早く囁きを伝へて行く。便所の手拭ひ掛けがこと/\と、戸袋に当つて搖れるのがやむと、一頻りひつそりと静かになつて、弱り切つた虫の音が、歯※[#「齦」の「齒」に代えて「歯」、11-7]にしみるやうに啼いてるのが耳だつて来る。
 初秋の夜気が、しみ/″\と身うちに環つて、何となく心持ちが引緊り、さあ「これからだぞ――」といふやうな気がするにつけても、訳もなく、灯とそれから人の匂ひが懐しい。暗い空に向つて、遙かに響きを伝へて来る甲武線の電車の音を聞いてゐると、その中の人達や、或はそれの吐き出される明るい街々やが、ぱあつと眼に泛んで来る。帯の間に両手をさし込んで、そんなことをぼんやり意識しながら、夫は猶縁側に立ち尽してゐると、台所の用をすませて妻がはいつて来た。
「ね、何処に行きませう?」といつも機嫌のいゝ時に見せるあどけない顔をして、箪笥の上から鏡台を下して電燈の下に据ゑた。手水を使つたものとみえて、お湯に刺激された頸すぢや顔が冴え/″\と紅くなつてゐる。肌ぬぎになつた胸の左右に、二つの小さな丘のやうな乳が、白粉を塗つてゐる手先の運動につれて、伸びたりふくらんだりしてゐる。
「そんなにおしやれしなくたつていゝぢやないか、早くおしよ。」
「だつて………」と鏡の中で眼が笑ふ。
「ねえ、銀座に行つてみませうか? 随分暫く行つてみないから。」
「うむ。」
「そしてウーロン茶を飲むのよ。」
「うむ。」
 二人は何となく幸福であつた。そしてその幸福は、めつたに人が真似することの出来ない、又窺ひ知ることの出来ないものでゝもあるやうに、二人は心密かに得意であり、満足であつた。それは、いつでも夫婦の心がぴつたりと隙もなく合つた時に、神が用意して置かれる恵みのやうな心持ちであつた。
 髪を撫でつけてしまふと、濡れ手拭ひで二三度顔を叩いてみて、鏡に近く顔を寄せてみたり、眉を上げてみたり、頬を撫でゝみたりして、熱心に鏡をのぞき込んでゐた妻は、縁側の藤椅子に腰を掛けて、興ありさうにこちらをみてゐる夫の顔が映つてるのをみると、につと笑つてやう/\満足したやうに鏡の傍を離れた。その顔は、「私だつてお化粧をすりあ、ちつとは可愛くなるでせう?」といひたさうに少しすまして。
「さあ/\、早くしないと遅くなるよ。」と、夫は内心その心持ちを悟つて微笑しながら、わざと急きたてた。一つ間違つてすねだしたら最後、石のやうに冷たく固くなつてしまふ悪い癖――その呪はしい一面の性質が、一体この女の何…

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