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脱殻
ぬけがら
作品ID4263
著者水野 仙子
文字遣い新字旧仮名
底本 「水野仙子 四篇」 エディトリアルデザイン研究所
2000(平成12)年11月30日
初出「新潮 十九巻六号」1913(大正2)年12月発行
入力者林幸雄
校正者多羅尾伴内
公開 / 更新2004-05-01 / 2014-09-18
長さの目安約 19 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

時は移つて行く。今日の私はもう昨日の私ではない。脱殻をとゞめることは成長の喜びである。
その脱殻の一つを、今私はその頃の私に捧げようと思ふ。

 いつの頃からともなしに私はさうなつて来た。どうした訳でなのかもわからない。寧ろわかることを避けて居る。面倒くさがつて居る。私はたゞ、此頃私はかうなんだと思つてみて居る。
「なんて腐つたやうな生活なんだ!」
 かう言つてあの人は憤る。すると私もさう思ふ。
「まるで腐つてるんだ。蛆が湧くぜ今に!」
 唾でも吐きかけたいやうな顔つきをして、あの人は私を見下して起つて行く。全くそれに違いない。適切な言葉だと思ふ。だけど、たゞさう思ふだけで、一向痛切にそれが響かない。私の腐つた心には、もう薬もなんの利き目がないのかも知れないなどゝ思ふ。
 パラ/\と自棄に頁を繰る音がする。と、やつぱり相手を求める私の力でないやうな力に操られて、私はつと後を追つて行く。
「ね!」とぺたり坐つて、あの人の膝にしなだれかゝる。あの人は黙つて居る。
「ねつたら!」
「おい!」
 いつもの慍つてる時に出る声の返辞。すると私は、無上に気に入らなくなつて、何がなんでもそれをどうかしなければならなくなる。
「いやあよ!」と鼻声になつて、膝の上にのしかゝつて、猫が自分の寝どこを工合よく作る時のやうに、ぐん/\と体の半分を机とあの人の体との間に割り入れてしまふ。
「よ! 厭だつてば、そんなに慍つたやうな顔をしてちやあ。」と仰向けになつて見上げながら、首に手をかけてぐい/\と搖らせる。その時に一寸、少し大き過ぎると思ひ/\したこの人の鼻が、此頃は一向気にならなくなつたことなどを思つたりする。
「ねえ! よう!」
 それでも猶あの人の頬は引締つて、丁度内側から吸ひふくべでもかけたやうに、肉がこけて見える。そんな時には、頬骨がいやに高く目に立つて、角度の多い顔になる。そのいつまでもほぐれない顔色を見て居るうちに、それが女の資格を失ふことでゝもあるかのやうに、私の心は焦慮れて口惜しがつて来る。そして意地になつて男の心を随はせようとかゝる。
「ようつたらよう!」
「煩い!」
 と、私の心は足場を失つてほろりとあの人から離れる。細胞といふ細胞に一ぱい含んで居たやうな体の味――さういつたやうなものをあの人に甘へてる時にいつも味はふ――が、汁を吸ひ取つた梨の滓のやうにぽろ/\したものになつてしまふ。私は恐い顔をして凝乎とあの人を見つめる。すると、自分で出した声の突拍子だつたのに少し慌て気味のあの人の顔に、それこそほんのすこうし和いだ影を見て取ると、私は如何にも萎らしく消気たやうに悲しさうな顔をして、黙つて凝乎と遠く障子の桟などを見つめて居る。
「何だい? ん?」
 今度は私が黙つて居る。暫くしてそつと偸み見をすると、あの人は如何にもものを内に向いて考へるやうな眼付をして、ぢい…

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